iTunes Matchが急遽日本でも開始されたと聞いて最初に思ったのは「iPodClassic販売終了になるんかな〜今のうちに買っといた方がええをかな〜」という事だった。あらゆる音楽がストリーミングで流れ込んでくる、いわばポータブルプレイヤーの"パーソナル・ラジオ"化が進んでいる。
ちょっとTwitterとの連想をはたらかせてみる。Twitterは、誰1人として同じ風景を見ていない。PCかタブレットかスマートフォンかガラケーか、クライアントは何を使っているか、フォローは誰か、リストを活用しているか…パーソナルカスタマイズできるレベルが格段に上がっている。恐らく、Spotify等のストリーミングサービスはTwitterの音楽版のようになっているのではと推測する。使った事がないけれど。
昔の選択肢はせいぜい両手で数える程だった。大手新聞紙、地上波テレビ局、週刊誌、漫画雑誌、野球球団、等々…いずれも、皆が把握出来る程度の振幅しかなかったのだ。
今は選択と推奨の個人特化は基本になりつつある。Spotifyは馴染みがないだろうが(日本でそう言うてる間に海外では次のサービスに置き換わってるんじゃないか)、Amazonのレコメンドなんかはかなりわかりやすいか。ええとこついてくるなぁと感心せざるを得ない。
iTunes Matchも、消費者側からみればオンラインでの音源の管理だが、提供側からみれば個人情報の把握だろう。自動化されたパーソナルカスタマイズ。この流れは止められそうにない。
こんな中で歌を唄うなら、それを見越すなり追い越すなり無視するなり、何か新しいアプローチが必要だ…というか、作詞家作曲家の普段の音楽生活がそうやって個人特化していくとすれば影響は免れ得ないだろう。
ヒカルの場合、その流れをどう感じているか。何が言いたいかといえば、選択と推奨の荒波とは、カテゴライズの細分化に他ならないからだ。あなたはこのジャンルの曲を選びましたね、では同じジャンルのこちらは如何でしょう、というのがレコメンドの基本である。宇多田ヒカルというブランドは、このジャンルとカテゴライズという世界観から孤立している。わかりやすく言えば、アニソンのレコメンドを辿っていっても桜流しには辿り着かないし、桜流しからはどのアニソンにも辿り着けない―少なくとも音楽的には。実際には、カラーやガイナックスの他作品の主題歌等を推薦されるとは思うが、それで曲を気に入るかというと相関は薄い。勿論、楽曲との出会いの機会という根本的なファクターを手に入れていはするのだが。
こうなった時には2つの極端な道があろう。どのジャンルにもカテゴライズされず孤立して取り残されるか、或いは総てのジャンルにおいてレコメンドされるかだ。宇多田ヒカルというブランドに相応しいのは後者だろう。音楽を聴く者なら誰しもが新曲に注目する。そっちの位置なら収まりがよい。ある意味、ヒカルは馬鹿売れするか全く売れないかという2つの未来の間を常に行き来するミュージシャンとして認識されていくかもしれない。結構売る方はギャンブルだな。
もっとも、ヒカル自身は「それも面白いんじゃない」と思ってるかもしれないが。頼もしいというか無謀というか。個人特化の空気。ヒカルの普段の音楽生活がどうであるかによって、捉え方は変わるだろうな。何が言いたいかといえばKuma Power Hour I miss youという事で。