無意識日記々

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それはただのうただから

毎度書いていて書くのも読むのも面倒だが敢えて書く。確かに音楽ソフト産業の収益は全体として下がっているが、本当に没落したのは日本の大衆音楽市場だけだ。他のどのジャンルも、市場も、どの時代にもお馴染みの栄枯盛衰を含めていつも通りの活況を呈している。ソフトの売上が下がったのは動画サイトの影響で、それは全世界的な傾向だ。

どうしてこんな事になってしまったのだろう。ひとつには、コミュニケーション・ツールの発達がある。日本では、他国と比較しても流行歌がコミュニケーション・ツールとしての効用を期待されがちだった。ほぼそれだけが役割だった。ポケベル以降、直接コミュニケーションを取れるツールが発達して間に流行歌を挟む必要がなくなった。

それと連関するかもしれないが、日本語音楽の特質というのもあるだろう。日本語のポップスと英米のポップスの歌詞で最も大きな違いはリフレイン、繰り返しの有無である。これはHikaruも度々触れているから御存知だろう。英語は、歌に載せるとただの音になってくれる。日本語は、そうならない。常に意味を持つ言葉として響く。だから繰り返すと「それもうさっき聞いたよ」とか「大事な事だから2回言いましたか」とか言われる。

つまり、日本人のうちのかなりの数が、歌の歌詞に何らかの内容を求めている。何と歌っているかより何を歌っているかが重視される。となると、それは別に歌でなくていい。メロディーに載せる必要なんてない。

今や、言いたい事や伝えたい事はツイートすればいい。うまくすれば、途端に何万というリツイートとファボがくる。読んでくれる人は数十万にものぼるかもしれない。Twitterというシステムと利用者数の多さの勝利だ。

昔はメッセージにメロディーがつく事には意味があった。口承文学などは、節あってこその伝承だった。言葉はメロディーと手をとれば時間と空間を超えられたのだ。

しかし今は、メロディーなんてつけてたら容量オーバーだ。無駄である。140文字のテキストや、パッと見てアッと言わせる写真やイラストが重宝される。現代人は時間に五月蝿いのだ。イントロなんて聴いてる暇はない。呟いて拡散するのがいちばんの近道だ。リアクションもすぐ来る。歌なんか出来てから5週間とか待たなきゃいけないんだぜ。その間に古くなったりタイミングを失ったりしたらもったいないよ。

こんなことになるのは、歌をそういう風に捉えているからだ。歌をアミューズメントやエンターテインメントだと捉えていれば、ツイートに負ける事はない。しかし、確かに、何を歌えばいいかは、昔に較べて悩まなくてはならないかもしれない。あクマでもこれは日本語の話であって、英米では相変わらずPopsは元気なものだが。

確かに、日本語の歌には、歌詞に重きを置きすぎたのか、メロディーだけだとなんのこっちゃになる曲も目立つ。ただ、それは他の国の歌も同じで、我々が洋楽を聴いて「なんじゃこれ」と思うのは大抵歌詞重視だ。そういう意味では、日本語も特別ではないといえるかもしれないが、やはり日本の大衆音楽市場だけが没落したのだから、他の国に較べて何か違う事があるんじゃないかと思いたくなる。でないと、なんだか懐かしくなるしかないのよ。俺に「昔はよかった」と言わせる気か。

「歌で何かを伝える」意義は、しかし、確実に揺らいでいる。言いたい事があるなら呟けばいい世の中で何を歌うか。アミューズメントとエンターテインメントに徹すれば、そうそう悩む必要はない。聴いて楽しい、歌って楽しい歌を歌えばいいのだ。

聴き手に何かを考えさせるような歌詞、入り口としてはいいかもしれない。歌で有名になって、皆にBlogを読んで貰おう。なんだか、歌が主役じゃない。うーん。

私も結構わからない。別に何を歌ってくれてもいいし、歌詞の真髄は詩としての美しさにあると思っているから、メッセージ性があろうがなかろうが大した問題ではない。作詞者に言いたい事があったとしても、私が耳を傾けるのは詞としてのよさ、他で聞けないオリジナルな言い回しや組み合わせ、美しい音韻、音程との調和とせめぎ合い、だ。何か主張があるのかなと思ったら改めてその人のBlogを読みに行こう。歌は歌う為にあるのだから、ただ聴くだけだ。私は悩んでいない。じゃあなんでこんな事書いたんだろうね。私にもわからないよ。