無意識日記々

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年齢に関するコロンブスの卵

そういえば面白い文章を読んだ。リスナーよりアーティストの方が歳上の場合、アーティストの活動期間が長いと、リスナーの方がそのうちアーティストのデビュー時の年齢に追い付き、そして追い越すと。音源に込められた歌声は若いままで年をとらないから、ずっと歳上だと思っていた人の年齢になって今の自分と比較してあらためて吃驚する、と。

当たり前といえば当たり前過ぎるのだが、何故これが私にとってコロンブスの卵だったかといえば、宇多田ヒカルといえば年下と決まっているので、「追い付いて追い越す」という感覚がなかったのだ。確かに、もうデビューから16年経とうとしているのだからヒカルの年下のファンもいっぱい居て、その人たちの多くは「気が付いたらHikkiがAutomaticを作って歌った年齢を超えていた」というのを経験している。

特に、小学生やそれ以前の頃からファンだった人は、15歳16歳で追い付いた時に感じるものは随分と違うだろう。幼児にとって15,6歳というのは随分お姉さんで、その人の歌が上手なのはあんまり不思議でもないのだが、いざ自分が15歳になってみると「どういうこっちゃこれは」となる筈である。ある意味再評価みたいなもんだ。

私のような「ずっと年上」の人間は、自分が15歳の頃を振り返ってみると確かに…といった風に考える事は出来るのだが、追い付いて追い越す感覚となると、「まず5歳の時の自分が15歳のお姉さんの宇多田ヒカルを見たとして…」という所から妄想を始めなくてはならず、なかなかその感慨を構成しづらい。結構どういうもんかが想像がつかないのである。

それは、ヒカル自身にもあるかもしれない。尾崎豊の年齢を追い越し、フレディー・マーキュリーの享年も踏み越え、となった時にヒカルはどんな感慨に浸るのだろうか。いちばんぐっと来るのは、お母さんの年齢を追い越した時に違いない。ヒカルは、自分がその歳の時母も同じような事をしていた、というのを大量に知っている。それはまぁズレはあるが、若くしてデビューして大ヒットして結婚して、というのはやっぱりよく似ている。ヒカルの場合追い付いて追い越しているというより、いつも隣に居て同じ人生を歩んでいるかのような感覚の方が近いかもしれない。ここらへんは、彼女たちに限らず、親子や姉妹兄弟にもみられる事ではあるが。

ただ、もっと言えば、ヒカルが母の歩んでいない未踏の人生の領域に踏み込むのはずっと先の事なので、まだそこらへんの感覚はわからないけれど、そこからがいわば、本当のヒカルのオリジナルの、手探り感覚の人生が始まるんじゃないかと、ちょっとワクワクしている面もある。勿論、既にヒカルはお母さんと随分異なる人生を歩んでいる(ずっと年下のイタリア人男性と結婚したりはしなかった!)から、そんな先まで考える必要は既にない、と言う事はできるのだが、寧ろ一般論と経験則で言えば、「年をとればとるほど親に似てくる」のが通例だ。これって単に年齢差が一定なんだから加齢して年齢比が次第に1に近づいていっているだけな気がしなくもないが(20歳の時の0歳児は大人と赤子だが、彼らが85歳と65歳になったらもう両方老人である)、ヒカルも30を越えて、「自分の記憶の中に実際に居たその年齢の母」と自分を比較できる時期がやってくる。そうなった時に、また母への感謝と畏敬と憧憬の念が改めて生まれてくるのではな
いか。なんだか視点があっちに行ったりこっちに戻ったり案外ややこしい話になったが、つまりは年をとる楽しみがまた見つかったなという前向きなお話なのでした。まる。