無意識日記々

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「やっとマチュピチュ」ちょっと聴いてみたい(笑)

筒美京平の足跡をほんの僅か辿ろうとするだけで目眩がしそうだわ。ほんまなんちゅう曲数やろな。

ここまで圧倒的な活躍をした作曲家って他にどれくらい在るだろうか。海外だとバート・バカラックとかダイアン・ウォーレンとかマックス・マーティンかなとWikipediaを読んでみたが筒美京平程の数ではなかった。勿論それでもとんでもないのだが、更にその遥か上の物量となるとそりゃ目眩もするわな。

本来作曲家というのはかなりの裏方だった。特に二十世紀中盤までは作詞作曲編曲歌唱の分業制が際立っており、流行歌手と流行作曲家は別物だった。昨夜ツイッターで「筒美京平の死は音楽家では美空ひばり以来の、クリエイターとしては手塚治虫以来の衝撃」みたいな事を書いたのだが、なのにそこまでの知名度が無いのは、裏方としてなかなかメディアの表舞台に立つことがなかったからだ。

かくいう私も彼の顔写真をこの度恐らく初めて見た。そんなでも彼の名前が刻み込まれて居たのはひとえに80年代の音楽番組が(特に「ザ・ベストテン」が)律儀に全曲作詞作曲クレジットを字幕で出してくれていたからだ。お陰であの頃テレビを観ていたアラフォー以上の人間は「また作曲:筒美京平、作詞:松本隆の曲かー」という呆れた溜息に大きく共感するのであった。

その字幕を観ていたか観ていなかったかで全然彼の印象が違うだろう。何しろテレビに出ない人だったので当然ながらスキャンダルやゴシップもなく、ずっと「字幕にだけ存在する人」だった。

逆から言えば、それだけテレビに顔を出して歌うというのは人の印象に影響を与える事なのだ。ヒカルがデビュー当時から「いいでしょ別に。歌詞なんだから。」と言ってもなかなか通用しなかったのは、顔を出して歌っていたからだ。そのルックスと歌の歌詞がイメージの中で結びついてしまえば、どの歌詞も私小説的に結び付けられてしまうのだった。

そこらへんが、それこそ筒美京平のような職業作曲家とは違うところで。人と歌が強く結びついている為、その人の物語が要求される事になる。筒美京平が「飛んでイスタンブール」を書いたからといって彼がイスタンブールに行ったかどうか気にする人は殆ど居なかっただろう。庄野真代イスタンブールに行ったんだと勘違いする人の方が遥かに多かったのではないか。しかし今ヒカルが「やっとマチュピチュ」なんてタイトルの歌を歌ったら我々は即座に「やっと念願叶ったのね!」と大喜びしてしまうに違いない。容易に歌とその人の物語を繋げて解釈してしまう。

ヒカルが自分の事を「音楽職人」などなどと呼ぶ時に我々が感じる違和感はここにある。先述したように、ヒカルは社会の中で役割を演じるタイプではなく、徹底的に徹頭徹尾『宇多田ヒカル』として振舞っている。音楽職人という呼び方をする時には、私情を排して仕事に徹する、己の匂いを消すことも厭わないような潔さというか雇い主の要望に応えるスタイルを思い浮かべるが、ヒカルは最早ブランドですらなく、どこまでも一個人としての魅力を軸にオファーを受けている。無私の職人というより単なる「かけがえのない人」なのだ。

もっとも、宇多田光さんからすればそれでも「宇多田ヒカル」という役回りを演じているという言い方も出来るかもわからない。だが我々に宇多田光さんの物語はよくわからない。その理屈からいえば宇多田光さんの方が今までの筒美京平的ポジションだった訳でね。でも宇多田ヒカルと宇多田光って顔面も声も体型も全く同じな訳で、あたしらに区別つけなさいよと言われても、それはやっぱり難しいのでございますよ。多少はそこに物語を見出そうとしたとしても御目溢し願いたい。で、マチュピチュは行けたのかなぁ……。