無意識日記々

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popへの意志と日本語のジレンマ

Pop Musicというのは、何も規模に囚われる事はない。世界だとか日本だとか、そういうスケールで語られがちだけれども、寧ろそれは志の話である。「1人でも多くの人に聴いてもらいたい」という意志が、音楽をPopularにしていくのだ。

特定のジャンルに落ち着いた場合、その世界の中での会話に終始する。前はこんな事をしたから、次はこんな事をしてみよう、みんなどう思うかな、という風に考えている時点で、大体その「みんな」の顔はみえている。現実にはファンというのは時間とともに移り変わっていくものだから固定されている訳ではないのだけれど、意識としては既に大体"顔のみえている"相手が想定されている。

その意味で、Pop Musicianとは常に開拓者だ。今度は、今まで聴いてもらえなかった人たちに聴いてもらうようにしよう、という意志は音楽をよりわかりやすく、また、流行をとらえたものへと変化させていく。伊藤政則風にいえば「どんどん間口を広げて」いく感じである。

その意志があるかないか、だ。しかし、そうやって音楽性を変化させるのは、新しい層の開拓に成功しても旧来のファンを失い、結果としてスケールダウンする事にもなりかねない。常にPopであろうとする意志は常にリスクと隣り合わせだ。

そのコントラストが最もハッキリするのが日本という市場である。言葉の壁だ。今まで日本語で歌ってきていて、日本である程度売れてさぁこれから海外の人にも聴いてもらうぞとなった時、日本語詞から英語詞にシフトした方が有利なのは言うまでもない。だからといって英語オンリーになると日本でのファンベースを失ってしまう。言葉の壁はPop Musicの壁でもあるのだ。

従って、今まで幾つもの、海外でも通用しそうな才能たちが日本国内にターゲットを絞り込んで海外展開を封じてきた。海外をツアーすると言っても、日本語のままでも通用するアジア圏とか、そもそもあんまり英語に馴染み切っていないかもしれない国々が中心で、欧州や北中南米など、英語のPopsがヒットしている国に乗り込んで、というケースは稀だった。

Utadaはその数少ないケースのひとつで、Loudnessと同等の結果を残した殆ど唯一の例であるが、逆に日本では殆ど話題にならなくなっていった。海外での成功を逆輸入できる、なんていう状況にまではならなかった。全米1位を獲るくらいでないと無理なんだろうな。

今のHikaruの志向性はわからない。しかし、よりPopであろうとする意志と、日本での活動が基盤になっているという現実とに折り合いをつけるのは難しい。どれだけ売上や市場規模が小さくなっても、洋楽ファンのパーセンテージは昔から殆ど変わらないのだ。

もしかしたら、最近言われている"小学校からの英語教育"が定着すれば現況にも変化があるかもしれないが、それって何年あとの話だい…?