無意識日記々

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"みんな"の実存的不安とノスタルジー。

「スネアの切なさ」は若き日の宇多田ヒカルの名言中の名言だが、楠均(宇多うたのキプトラでドラム叩いてる人)の演奏を聴いていると、「ノスタルジックなドラミング」という表現がぴったりくるなと思い及んだ。打楽器が郷愁という感情を呼び起こすとは聴いて感じてみるまでは発想すらなかったが、こうやってメロディーの中に入ってきて太鼓を叩く人は音程を奏でるリード楽器より時としてエモーショナルたりえる。彼、楠均のドラミングについては、3周目以降があればその時また触れる事にしよう。


さて2周目はあまり詰め過ぎないでいこう。宇多うたに興味のない読者も中には居るかもしれないし。いやそれだと読んでないか。私は普段周りの空気なんぞ全く読まないが、宇多田ヒカルファンの集合体が作り出す空気にだけは反応する。敏感に、ではなく鈍感に、かもしれないが、少なくともゼロではない。皆がヒカルについて何をどう思っているか、知りたいと常々思っている。

それというのも、単純に、理屈の方からいえば、ヒカルはそういった人達、即ち我々の反応というのに少なからず影響されてきているからだ。これは、Pop Musicianにとって第一義たる態度である。"他者の音楽"たる所以。キャンクリはひとに聴かせるという大義名分が無ければ生まれなかった名曲であり、即ちこの曲のジャンルは"Pops"でしかありえない。いや"ballad"とかでもいいんだけどそういう意味ではなくてな。ヒカルが外側から見てどう思われているか。あ、今ノスタルジーが頭の中を右後ろから左斜め前に横切った。(全く必要の無い独り言を挟みながら) なんだ今の。もう忘れてるし。

話を戻そう。ヒカルがPop Musicianである以上、私は「彼女と世界で2人っきりになれたらな」なんて思わないし、思えない。「みんな」という幻想がなければPopsなんて作れない。一体それは誰の事を指すのかといえばこれがさっぱりわからなくなるのだが、みんながみんな「みんな」という幻想を抱き、そこに共通観念があれば、みんなは存在するといえるのだから、それはとても抽象的、言語的存在だ。

実際、特定の人間の集合を考えて「これが宇多田ヒカルかその音楽を愛している人たち"みんな"です。」と言ってもピンと来ないんじゃなかろうか。第一、愛してるだなんて重いよ。ラジオでたまたま聴いて、何の気なしにその鼻歌を歌っている、それだけの人だって「みんな」のうちの1人であるのは間違いない。何だろ、だとすれば、やっぱり雲を掴むような話だな。

その「みんな」と格闘(?)するのも悪くない。元々のテーマは、って今でも変わらないか、結局「宇多田ヒカルと私」である筈で、その集合体を考える必要はない。個と個、という宇宙の単位を誰しもが感じられる事、孤独と呼ばれたり呼ばれなかったりする何かだが、古い言い方でいえば実存的不安だろうか、それをベースにしながらも、そこから"社会"が形作られていく過程で、我々"みんな"は何を得、何を失ったのか。それを知りたいと思う。



まとめるて、まぁつまりその、なんだ、明日オフ会行ってきますね、という話でした。ちゃんちゃん。