無意識日記々

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その6にならなかったパティーン

Kuma Changについて色々と考えてみる。彼は固有の個体であり、居る場所も過ごす時間も一個所のみ―ヒカルの傍だ。取り敢えず英語は喋った事なかったんだっけ。フランス語は判断が難しいが。中国出身だけど中国語は喋れないよな。

彼の"自己同一性"はどのようにして保たれているか。我々の中に、普通の人間と同じように、いやさテレビでちょいと見掛けた人なんかとは較べモノにならないくらいに、我々は彼の性格をよくよく知っているし、彼らしさとは何かをようく心得ている。

寿命はヒカルが死ぬまでだ。それ以降はものいわぬただのぬいぐるみ、或いは、喋るとしても最早別人、いや別熊であろう。同じ肉体、じゃなかった、同じ綿であっても―それはつまりヒカルの死後誰かに譲り受けて貰うという事なんだが―、もうあのKuma Changにはなりえない。同じ肉体(だから綿だってば)に異なる魂が乗り移るのだ。

反対を考える。もし何らかのアクシデントがあって、綿が戻ってこない時、例えば全く同じ製品がやってきたとして、それは同じKuma Changなのか。これは、ヒカルに訊いてみたい。多分両頬膨れ上がらんばかりに張り倒されると思うけど。誰だ御褒美とか言ってる奴は。

たぶん、いちばんデリケートな領域だ。異なる肉体(綿!)に、同じ魂は宿るのか? 平たくいえば生まれ変わりみたいなものか。今のKuma Changだって、定期的に腹綿(腸(ハラワタ)じゃねーぞ)を追加したり取り替えたりしているのではないか。そういう意味では、Kuma
Changは物質的には同じKuma Changではない。ではどこまで許されるのか。糸の解れは、どこまでなら治していいのだろうか。目玉がとれたら? 口が割れたら? 凄くおぞましい話になっているが、ここがポイントな気がするので怯まない。あぁ怯まないさ。

やはり、全く同じ製品がヒカルの許にやってくるという状況の思考実験がいちばんシビアだ。"手作りだから一個々々違うんですよ"といわれたひにゃあ、もうどうしたらいいかわからない。ヒカルは"これはKuma Changじゃないっ!"と喚くのか、何事もなかったかのようにいつもの会話が続くのか。誰かコッソリKuma Changを同じ製品の違うヤツにすり替えてヒカルが気がつくかどうか見てみようぜ、と言ってくる奴が居たら今度は私がソイツを張っ倒す。絶対にやらないしやらせない。これはキツい。うむ、やっぱりこのテーマについて書くのは憚るのが正解かもしれないな。