無意識日記々

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詩のありよう

「詩」のありようは多様である。ひとつの形態に収まるものではない。

ヒカルの詩は『Deep River +』『Untitled (Utada United 2006)』何れもが「朗読詩」だった。ヒカルが声を出して読んだのだ。文字で提供された訳では無い。その意味で、本/書籍として刊行されている詩に較べて音楽/歌に近い存在だった。実際、それぞれが音楽にそのまま繋がっている。

“文字で提供”と書いたが、これもまた多様性を孕んでいる。宮沢賢治の「春と修羅」は目下青空文庫で読むことが出来るが、Wikipediaにはこの作品の詩集としての体裁についてこのような記述がある。

── この作品の一部は少しずつ各行の段組が上下にずれ、全体がうねっているような形になっており、それによって詩人の内面の動揺が外界の知覚をも歪ませている様が表現されている。

この効果はどうやら青空文庫では再現されていない。実際の書籍として手に取らないとわからない仕様だ。同じ文字による表現にすらこのようなバリエーションが可能なのだ。

故にヒカルが詩をあらわしたとして、どうやって提示するかという方法が問題になるだろう。テキストとして電子で出すのか書籍で出すのかはたまた朗読するのか、音読するとして自分自身でなのか常田富士男にやってもら……えないけどねぇもう。

その意味で3年前の初歌詞集「宇多田ヒカルの言葉」は画期的だった。それまで、歌詞カードは添付してはあったものの、基本的には音声として、歌として提供されていた作品がテキストとしてまとめて提示されたのだ。これはただ歌詞カードを並べたのとは訳が違うだろう。

もともとヒカルも、例えばアルバム『ULTRA BLUE』のブックレットでは歌詞の並びに様々な意匠がこらされていた。『Making Love』などはその最たる例で、文字間隔やカタカナの導入など、「目で見る歌詞」というものにも気を配っていた。故に今後(歌詞の為ではない)純粋な詩をあらわす時、テキストと音声ではアプローチが異なってくるかもわからない。歌においては歌詞に合わせる為にメロディに手を加えることを厭わないヒカルが、今度は詩に携わった時に伝えるメディアの違いで歌詞本文自体も改変するのか、或いは詩とは揺るぎないものだからと不動を貫くか。興味は尽きない。

言葉は、どこにでも託せる。絵に添えてもいいし、彫刻なら刻んでもいい。料理ですらオムレツにケチャップでメッセージを伝えられる。だから逆に、どんな伝え方で我々に詩が届くかというのも非常に多様になると考えられる。『点』と『線』では編集長、『Goodbye Happiness』では映像監督まで務めた宇多田ヒカルがどこかの時点で「詩」に本気で取り組んだ時に何が起こるか、これは見ものなんてものじゃ済まされない事になると思うよ。