無意識日記々

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カタチと言葉にし直す案

最近時々思うのは、「若い世代にはちゃんとカタチと言葉にしないと伝わらない。」という事だ。こんな事は言わなくても常識として弁えておいて欲しい、という態度はやがてその分野の衰退を招くだろう。どんな小さな事柄・分野であっても、しっかりと型を作り、型を学ばせ、型を再現させ、それが何であるかを端から端まで理解していって貰わないと次の世代には伝わらない。

具体例を挙げようと思ったがやめておく。「言わなくてもわかるでしょ。」という態度全般についての話だと思っておいてうただければ。同じ世代に同じ空気を吸った者同士があうんの呼吸でやりとりをするならそれは見事なものだが、次の世代に(そのつもりもないのに)強要しても反発を買うだけだ。阿る必要はないが、いつでもカタチと言葉にできる準備はあった方がいい。

何故こんな事を書いているかといえば、若いHikkiファンは、宇多田ヒカルがどういった感性や思想や哲学を持っているか知っているのだろうか。単純に、それを窺い知れるようなメッセージをヒカルが最近書いていないのではないか、と思うのだ。

ツイートの端々から、幾らかの変遷はあってもヒカルの考え方が基本的には変わっていない事は窺える。しかし、それがわかるのも我々オールド・ファンが昔ヒカルの書くメッセージを隅から隅まで読んでいたからだ。1回しか読んだ事のないメッセはひとつもない。あ、あるにはあるか。すぐに削除しちゃったヤツとか。兎に角、殆ど無い。

10代の頃の"Hikki"は、「そんな事まで書いちゃっていいの?」とこちらが心配になる位に自分の思った事をハッキリ書く子だった。勿論それはただ思うままに書いているのではなく、公共に対する発言である事をよくよく考えた上で象られるまるでアートのようなメッセージだった。率直なメッセージを書けるというのもまたひとつの才能なのだと思い知らされた。そして、そうやって度胸と覚悟をもって思いをカタチと言葉にする子だったから、私たちはこうやって集まって来れたのだ。いわば、彼女の言葉は我々の人生の礎(いしずえ)ですらある。

今の若いファンはどうなのだろう。過去のメッセを読み返したりするのだろうか。「点」と「線」を隅から隅まで読んでいるのだろうか。読んでいるなら天晴れであるが、読んでないからといって彼らに「これは読んでおくべき」と言うのは避けたい。「もし貴方がHikkiの事をもっとよく知りたいのなら」と付け加えられるならばこの限りではないが。

だが、たった今リアルタイムでメッセージが更新されるなり連続ツイートがあったり等があったなら「飛ばさずに読んでおけば」と言いたくはなる。それは如何にも、もったいがない。

ヒカルも、本来ならば、若いファンに対して、もっとわかりやすく思いを伝えるべきなのだが、あまり思想づいた事を発信せず当たり障りのない事ばかり呟いているのは、どちらかといえば、環境と状況に適応した結果であるだろう。

今や有名人が何かをいえばすぐに炎上する時代。時にはただの誤解から実害を生むに至るものまであり、黙っているから大丈夫、とすら言えなくなってきている。従って、宇多田ヒカルがUndisputableな(議論の余地のある)を展開するのはリスクが多すぎる。ヒカルの判断は間違っていない。

ここらへんがジレンマだ。喋ると炎上するが、喋らないと若い世代に伝わらない。そこで提案だが、そろそろ「点」と「線」を文庫本化してはどうだろうか。両書籍ともカラー写真がいい仕事をしているので実現はかなり難しいのだが、どこでも誰でもヒカルの感性や思想に手軽に触れる事が出来るのは大きい。特に、「線」に関しては新しく増えたメッセージを追加した新装版を作って貰えると有り難い。でも、そんな事やれる人手と時間がどこにあるのかっていうね。でも、実現したら喜ばしいだろうなぁ…。