日本語に沿うメロディー、メロディーに沿う日本語をヒカルはずっと模索し続けている。『な・なかいめのべ・るでじゅわ』の頃からずっと続く試行錯誤だ。歳月を経るに従い不自然さが消えた為に逆に熟達は認知されなくなったが、今後もそれは続くだろう。
一方でヒカルの場合英語圏のバックボーンもある為日本語と心中しきる必要もない。そういう意味ではモチベーションは中途半端ともいえるし、外から見れるのでやる気が出るともいえる。
どれだけ足掻こうと、今の日本の大衆音楽が西洋風な風潮は変わりようがない。付け焼き刃とはいえ、皆が既にそういう音楽を前提として生きているからだ。これを覆すのは難しいし、覆す必要があるとも思えない。
そして、前回指摘した通り、日本語の方も「近代化」されている。伝統と呼ばれるものは大抵が「昔からあるもの」ではなく「昔からあると言われているもの」「昔からあるかのように振る舞っているもの」である。
例えば薪能は、恐らく、数少ない「本当に昔からあるもの」なのだろうが、小さい頃から親しんでいない者にとっては何が面白いか全然わからない。何を喋っているのか、何を謡っているのかサッパリだ。これが歌舞伎くらいになってくるとまだわかる割合も増えるが、それは歌舞伎自体が近代化に熱心だからだったりする。それはそれでいいんだが、接ぎ木が根を張るかというと難しい。
この分断に対しては、かねてから私は「じゃあ宇多田ヒカルを出発点にするしかない」と言っている。ないなら作ればいいじゃない、と。しかし、それは意図的なものにはならない。意図して出来るもんでもないし。
もし助けになるものがあるとすれば、日本語に近い言語を操る国なり何なりがあり、そこに独自の音楽、独自の楽器が生きている場合だろう。しかし、そんなケースがあるのだろうか。それならまだ"昔の日本"の方が参考になる。しかし純邦楽楽器がヒカルの作曲に馴染むかというと…やってみたら案外ありだったりしてな。ないか。
しかし、世の中には民謡曲とレッド・ツェッペリンのギターリフをシリアスに組み合わせているケースもある。どんな方法論が機能するかはわからない。今のところ、この遠大なテーマに対して次の新譜は解答にはまだ早い。ずぅっとつきまとうテーマだ。徐々に何が見つかっていくかを見ていく事にしよう。