無意識日記々

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ここからだと、いい眺め

真夏の通り雨』を聴いてると、「歌」って何だったか思い出すよね。枚数でも金額でも評判でも話題でもなく、歌は歌なんだと。


桜流し』を中心にして聴く、というのは難しい事ではない。ただ感想に「『桜流し』と較べて」と付け加えるだけだ。やってみよう。

花束を君に』は、『桜流し』に較べて、朗らかで優しく、包み込むようなあたたかさがある。アルバムの中でも「陽」の部分を担う曲になるだろう。歌詞にも『太陽』が出てくるし。ピアノと歌で始まって、やがてストリングスにベース&ドラムスが入ってきて盛り上がっていくのも『桜流し』と同様の構成である。しかし、歌メロの配置がやや異なる。『花束を君に』では、基本的にはメロディーが2つしかなく、それらが交互に押し寄せてきてそのバリエーションがどんどん豊かになっていくのが特徴である。最初に呈示した主題に帰還していく『桜流し』とは対照的である。


真夏の通り雨』も、同じように見てみよう。これもまた、ピアノと歌から曲が始まる。タイトルのままに、『桜流し』と同じくピアノの音色は雨の音とイメージだ。やがてこちらもベースとドラムスが入ってくるが、こちらは楽曲を盛り上げるというより、楽曲全体の重心を下げる効果を齎している。これは、『桜流し』で第二主題たるベースラインが後半どんどん降下していく様と軌を一にしている。ストリングスが分厚くなり、ベースドラムのキックが淡々と打たれていくが、そこでは激情に身を窶すというよりは、どこまでも沈んでいって終わりのない感情の渦に飲み込まれていくかのようだ。

何よりも、『真夏の通り雨』の低音部のいちばんの特徴は、スネアドラムが一度も打たれない事である。「Kuma Power Hour」で“スネアドラム特集”があった時にヒカルが言った事を覚えているだろうか。「スネアが鳴り始めると、あぁ、曲が始まったんだなって感じになる」みたいな事を言っていた(書いてる私がよく覚えていないというね)。確かに、スネアがリズムを刻み始めたら我々は曲にノレる。裏を返せば、バスドラが打たれるにもかかわらずスネアドラムが一度も打たれない『桜流し』は、「始まってすらいない曲」であるともいえるのだ。

真夏の通り雨』から『花束を君に』の順に聴くと、最初のサビが終わって『花束を君に…』と歌われたところで漸くスネアドラムが打たれる。この時の解放感、「始まったな」感は甚だしい。そこから『花束を君に』は様々な歌唱法を駆使しながらどんどん感情の機微を描いていく。ある意味、この2曲を連続で聴くと、『桜流し』が単独で齎してくれていたオーセンティックでダイナミックなドラマツルギーをより振り幅を広く聴かせてくれているようにも思えてくる。

となると、『真夏の通り雨』は『桜流し』から歌の中でも言葉と詞の美しさをより受け継いでいて、『花束を君に』の方は器楽演奏の齎すふくよかな感動の方を継承していり、ともいえる。『桜流し』から詞の『真夏の通り雨』、音の『花束を君に』の2つに分裂した、とでも言い換えようか。勿論、『真夏の通り雨』の音作りも素晴らしいし、『花束を君に』の歌詞が感動的なのはわざわざ言うまでもないのだけれど。


斯様に、『桜流し』を中心にして新曲2曲を聴くと、それぞれの楽曲としての特徴を網羅的に把握し易い。果たして、この3曲はアルバムの中でどんな風に輝いていくのか。今から聴くのが楽しみでならない。いつになるやらですけれどもー。