無意識日記々

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"桜流し"の齎す満足感の構成方法

桜流し』をどうやって中心に据えるかといえば、その楽団編成である。ピアノ、ストリングス、エレキギター、そしてベース&ドラムスだ。

かつての宇多田サウンドは、曲作りのプロセスもあって打ち込み主体だったが、『Single Collection Vol.2』以降は生楽器(エレキギター&ベースを生楽器と言うべきかは微妙だが、ここでは人間がリアルタイムで演奏している(録音の再生ではない)ことを指す)を中心にした編成に変化した。

この変化の理由だが、ヒカルが生楽器の魅力に気付いたとか楽器をよく演奏するようになったとかが第一義ではない気がしている。曲作りは今でも未だに打ち込み主体のままで、しかし、生楽器のサンプル音源のクォリティーが格段に上がったのが理由なのではないかと。つまり、打ち込みで作ってもピコピコチャカポコにならずピアノとストリングスとドラムキットが嘶くサウンドになってしまっているのではないかと。

例えば、『花束を君に』は特徴的なドラムプレイが耳を引くが、リズムキープの色の無さからするともしかしたら元々は打ち込みで、そこに生演奏を加えたのではないか、などと想像が捗る。実際のところはクレジットとインタビューが出るまでわからない。

寧ろ面白いのが『真夏の通り雨』の方で、どう聴いても打ち込みで済むリズム隊が、実は人力なのだそうだ。河野圭さんの呟きによれば。したがって、完成バージョンが生演奏だからといって、そこに至るまでのプロセスが総て生演奏である必要はない。そのバランスと分配は、プロデューサーであるヒカルのセンスに依拠しているだろう。

そして、その器楽演奏にヒカルの歌声が加わる。唯一無二。

桜流し』は、器楽演奏と歌唱が、ともにふんだんに盛り込まれた楽曲だった。Instrumentalを聴けば、歌がなしでも楽曲として成立するほど分厚い演奏である。一方歌唱の方も、アカペラでも大丈夫というか、伴奏はチェロかピアノが一本あればいい、という程に単独ど成立している。それらをそこから合体させた『桜流し』。満足感は相当なものだ。そういう意味において、もし『桜流し』が次のアルバムに収録されるならば、『ULTRTA BLUE』における『COLORS』のように、アルバムにおける中心的役割を担う事が予想される訳である。


では、そこから(やっと)『花束を君に』と『真夏の通り雨』がどういう位置付けになるか、少し見ていく事に致しましょうぞ。