無意識日記々

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シン・ゴジラを、観てきたよ(2)

怪獣映画を看板に掲げながら、そちらの期待にもしっかりと答えつつ、映画の主軸となるのは絶え間なく新登場し続ける(しかも多くが名のある役者の演ずる)キャラクターたち、いや、役職たちが、絶え間なく矢継ぎ早に繰り広げる情報密度の濃い会話劇である。

その多くが圧倒的なテンポで次から次へと通り過ぎていくものだから、少しでも気を抜くと途端に置いてき堀になる。特に、生物学やら軍事やらの用語が出てくる場面はかなり厳しい。それも、この映画の場合、会話はそれ自体を楽しむと共に、物語を動かし続ける駆動力になっているので、それは即ちストーリー展開からも置いてき堀を食らう事を意味する。

と書くと、かなり楽しむのにハードルの高い映画かと思いきや、そうでもない。会話の細かい内容は把握できなくても、カット毎の最後は大抵「次は何をするのか」を告げて場面転換する。ハッキリと台詞で言うのである。だから、最低限そこだけ聞き逃さなければ、大ざっぱな物語の流れは掴めるようになっている。もっといえば、なんとなく観ているだけでも結構楽しめるのだ。

確かに、「何故今この場面になったのか」については会話を聞いていないと理解できないかもしれないが、「何がどうなったか」は都度わかりやすく提示されているので、この緊迫感の押し引きが作るこの作品の"全体のノリ"が肌に合う人であれば、専門知識なしでも楽しめる。ぶっちゃけ、要所で鋏まれる(メインの)ゴジラの場面だけでも見応えがあるのだから、要するに理屈をしっかり理解できる人は文句なく楽しめ、わけがわからない人でもその迫力で楽しめるという非常に間口の広い作品になっている。それだけでも希有である。楽しめないのは、「どういう理屈で話が進んでいるか理解しないと気が済まない」にもかかわらず矢継ぎ早な会話の応酬についていけなくなった人、かな。つまり、開始5分か10分で、2時間意地でも一言も聞き逃さないぞと集中するか、早々に諦めて「なんか知らんがゴジラが不気味で怖い」「みんな慌ててる」みたいな感じで2時間なんとなくついていけるか、どちらかを素早く選択できた人には楽しめる作品だという事だ。


ここでのミソは、欠かさず台詞を拾い切れれば、ゴジラ映画に対する特殊な予備知識無しで、言い換えると予め設定資料集を読み込んだりする必要無しに、この2時間の中で話のロジックを説明し切っている所だ。ここが凄い。勿論基本はフィクションなので糞真面目に突っ込み始めればキリがないが、ちゃんとこの虚構の世界の中で「話の筋が通っている」のは見事なものだ。つまり、様々な専門用語による会話の数々は、押井守映画にみられるような衒学的な中身の無い哲学風対話でなく、細部まで一言々々有機的な機能をもった"意味のある"台詞を構成しているのだ。たった2時間でそれをやりきる為の密度は、結果、ウゴウゴルーガみたいな凄まじいテンポとスピード感になったが、これぞまさに庵野秀明の真骨頂だと強く感じた。凄い。凄い映画である。

台詞の多くがそうやって有機的に機能していく中で、しかし、この2時間の本当の主役となる台詞、会話劇というのは、そのエッセンスを"ブラック・ユーモア"として持つ。それがゴジラの、「シン・ゴジラ」の肝である。次回はそこらへんの話から。何だろう、「風立ちぬ」以来の映画批評連載になってきたな今週は。新譜シン情報いつ来るんだろ。