無意識日記々

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enter your pain, entertain you

「シン・エヴァ」にどうなって欲しい、というのは正直無い。破でみせた王道的展開と、らしさ満載の鬱々としたQ 、どちらも捨て難い。そのどちらでもない何か新しいものを見せてくれるのが願いといえば願いだが、それはつまり「無いもの強請り」というか、あるかないかすら語れないものに手を伸ばそうとしているだけで要するに業突張りか。

一方、ヒカルの方は凄まじいアルバムを仕上げた。別に他の曲を聴かなくても今の3曲だけで名作決定なのだから言い切って構わない。問題は、前に触れた通り、果たして「娯楽的な曲」にまで手が届いているかどうかだ。

曲作りはセラピーだ。常に、次に奏でる音を選ばなければならない。誰に訊く事も無く、自分の心にしたがって。音楽に正解は無く、従って全ての音楽は正しい。歌を奏でる事自体に意味がある。いや、なくたっていい。ひたすら、いいのだ。渚カヲルくんの言う通りだ。歌はいい。

どれを選んでも正解なのだから、他のどれでもないその音を選んだのは徹頭徹尾作曲者の責任である。即ち、創作が選択の連続であるのなら、人は常に自分の価値観と感情に向き合わなければいけない。自分の心から逃げていては曲を作れないのだ。

ヒカルは、この3年間、ひたすら自分の心と向き合った筈だ。そして、そうして出来上がった歌が自分が何者だったかを教えてくれる。確かに、強烈なセラピーである。

創作を通じて、ヒカルは自らの心を癒やしたかもしれない。癒やし切れなくとも、知る事は出来たかもしれない。その地点を通り過ぎると、自らが生み出した作品に自信を持つようになる。
自信をもつと、人に誇示したくなる。ヒカルは控えめな性格(敢えて、人嫌いとは言わない)なので、寧ろ自信を持ったら「誰かの役に立ちたい」と願うだろう。音楽を奏でて人の役に立つ。何だろう。色々あるが、自分を吐露して共鳴して貰うのは人々の人生において大きな大きな意味をもちが、それは法外と望外のプレゼントでしかない。狙ってやったら失敗する。

狙ってやれるのは、人を楽しませる事だ。これは、意図的でいい。「今夜は目一杯楽しんでいってください」と言うのは不自然ではない。「次の歌で泣かせてやるからね」はどうも地雷だ。(否、「この曲聴いて泣いちゃった人が居る」とMCで言うのは可。これからの事ではないから。) ならば、自ら強い意志で音楽を紡ぐものは、早かれ遅かれ、時には自分自身も含めて誰かを楽しませていくのが音楽家のプリミティブな本能だろう。

その必然的な流れの中で、今ヒカルはどの辺に居るのか。アルバム全編が重た苦しいのか、軽やかに楽しい歌も負けていないのか。なんだか、それによって、シン・エヴァへの期待色が自分の中で変わっていく。もうここまで来たら、映画は歌に引っ張られる。寧ろ、映画を作り始める前に主題歌を渡してしまえばよいのだ。そこから作品を、生んでしまえばよい。実際、EVAQのラストシーンって桜流しの歌詞に合わせたみたいな場面になっていたし。庵野総監督、どうですか?