無意識日記々

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浮闇遠夢

テレビをつけると、宇多田ヒカルの歌が流れてきて安室奈美恵の歌が差し挟まれてMISIAの歌声が響く。今はいつの時代なんだと思いつつも、90年代歌姫たちがえらく健在なんだなぁと感じて遠い気持ちになる。

なるほど、確かにこういう流れでみてみれば、「とと姉ちゃん」の『花束を君に』も「NEWS ZERO」の『真夏の通り雨』も、嘗て期待されていたポジションとは若干異なるという意味で、「変わったなぁ」と思わなくもない。

大ヒット曲というよりは、聴いて安心できる歌声。歌の強さ。この2曲だから、というのも、毎日テレビで流れるから、というのもあるかもしれないが、世間はそんな区別をしないだろう。寧ろ、毎日の事なのでそのポジションが刷り込まれる。

結局、「良心」というポジション自体は変わっていない。これは当たり前の話で、ヒカルが真摯に取り組めば過程や結果がどうであれ良心的なサービスが生まれる。もう性格・人格としかいいようがない。

ニューアルバムは文学的な匂いが強そうな予感がしている。曲タイトルからそういう風に推測しているだけなんだけど、そもそも流行歌を楽しむ庶民に文学性なんて受け入れて貰えるのだろうかという疑問は拭えない。私小説的要素も強い。となると、誰が聴けば気に入ってくれるだろうか。

ここでも、(もしかしたら懐かしい)ミスマッチングが起こっている。宇多田ヒカルが有名になり過ぎて、もし聴いたらハマってくれるであろう潜在的なリスナーたちから敬遠されていく。全く知らない状況から知って貰えれば食いつきもよさそうだけれど、一度知ってよく見もせずに目を逸らされてしまうと、もう二度と見てもくれない。歯痒い。

そのお互いの不幸を払拭する為には、どうだろう、アルバムタイトルである『Fantome』は、パッと見で、どうだろうか。深い意味がどうのは、我々が捉えればよい。一瞥を呉れて「ん?」と立ち止まって、くれるのだろうか。例えばこれが「夏の銀河鉄道」みたいなタイトルだったら、多くの人が立ち止まる。いやそうしろ、ってんじゃなくて、そういう引っ掛かってくれる要素があったら違うだろうなという思考実験だ。ヒカルが宮沢賢治好きだって、どれ位の人が知ってる? 今みたいなタイトルをつければ、それが瞬クマに日本中に周知される。文学好きも大いに引っ掛かる。潜在的なマッチングが掘り起こされる。

残念ながら『Fantome』ではそういうことは起こらない。「ん? なんて読むの? ふあんとめ?」って言われてそこで終わりだ。しかしそういうのも考慮した上で、ヒカルは、この、収録曲名にないタイトルをつけたのだろう。真意を知るのはまだ先だが、話は既に始まっている。リスナーとして選ばれていくのは誰か。好むと好まざるとに拘わらず、人生は選択の連続なのだ。