無意識日記々

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男女んに迷い込む

男女の区別は成年未成年の区別と似たようなもので、結局は社会便宜のひとつに過ぎない、という話であった。(その話まだ続けるんかい…)

これは、病気疾患症状障害といった名称にも共通だ。病気というと人は風邪のように病理学的生理学的現象を思い浮かべてしまう。写真をとって腫瘍を指差してこれが病気です、というような。しかし、それもまた錯覚に過ぎない。そういった明確な物的証拠が示されるのは稀・特殊で、殆どの病気や障害は、その時その場所の社会的要請によって病気や障害に「なる」「される」のだ。例えば(古代でも現代でも)狩猟社会で読み書きが出来なくても仕事はあるだろうが、今の日本で読み書きが出来ないと色々な名前の障害名を託される。そういう社会だからその特性は障害と呼ばれるのだ。他の社会に行けばその人は圧倒的な天才で傑物なのかもしれないのに。そういったケースは枚挙に暇が無い。キリがない。

ではなぜそのような窮屈な、人を偏見による苦悩に追い込む社会便宜が生きているかといえば大衆の情報処理能力が低いからである。何と較べて高い低いをいうべきなのかはおくとして、細かい事を言われてもよくわからないとかぶりを振る人間が最大多数派なのだ。冷静に考えればそれがいちばんの環境不適応即ち病気であり障害なのだが、最大多数派が社会を構成する以上そう呼ばれ得ない。徹底して、病気や障害は社会的要請なのである。

この、情報処理能力の低さとは大衆の特性である。人は誰しも、自らの専門分野以外は無責任な大衆であって、興味もこだわりもなく何もかもさらっと受け流す。相対的な概念であって、誰それの処理能力が高くてこっちは低い、という話ではない。あらゆる分野に対して専門的な人間など居ないのだから。それが専門性の定義だもんね。

特に情報処理能力で問題とされるのは「あやふや」に到達できない事である。まず大衆は「白か黒か」で情報を判断する。「それはいいニュースなのか悪いニュースなのか」「敵なのか味方なのか」「晴か雨か」といった具合に。「降水確率40%」と言われた時に傘を悩む人、居るでしょう。私もです。本来ならば、あらゆる事に降水確率のようなグラデーション、「ほとんどの話はどっちつかずでいいところもあればわるいところもあってそれも見方によっては変わっていって」という風な様態が存在するのだが大衆の情報処理能力は低い。字数が増えると嫌がる。「白!」「黒!」と一言で断言して貰ってもうその話題は終わりたいのだ。そもそも興味が無いんだから。

従って、「男」「女」という区別をした時点で偏見は免れない。男の子が大変なのは、男の子として社会が見ているからで、それ以上の事は何もない。まず男女の区別をやめてみれば、何が問題かはすぐに明らかになる。大抵、見られて言われた方ではなく、見て言った方が問題を抱えているのだ。それが何のシグナルなのかは、そうやって見極めなくてはならないだろうて。