無意識日記々

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アルバム発売日当日に書くネタじゃナイ

では、『Fantome』が所謂"問題作"かというと、それもしっくり来ない。楽曲集としてみれば、最高傑作とまでは言わないまでも、相変わらず素晴らしい。これだけ曲があれば一年間は日記のネタに困らない。普段も懸念は自分の気分と体調だけで、ネタに困った事ないんだけどね。アルバムというひとつの作品としてみた時に、という話だ。

SCv2は新曲と旧曲のコントラストと連続性の両方が鮮やかだったし、TiTOはA面B面のアナログ盤的感覚で"米国と世界で売る"為の狙いが明白だったし、Hステの曲順の見事さは今更言う迄もない。いずれも、曲を単独で聴く以外に、アルバムとして聴いた時にまた別の独自の価値があった。『Fantome』の場合、それがない訳ではない。あるように思えるのにそれが何なのかハッキリしないから掴めない、そういう感覚なのだ今。

前回はそれを「タイトル・トラックの不在」という"名前の話"に求めた。今回は音楽面で考えてみる。

色々考えた。ズバリ、『荒野の狼』が原因だと思われる。

前の曲の『真夏の通り雨』は、永遠に癒えない悲しみの無限ループに落ちていく救いようのない楽曲だ。だから、この曲を自分で勝手に他曲と繋げて聴く場合、『Fantome』以前であれば、そこから『花束を君に』に繋げて未来へのはなむけとするか、或いは『桜流し』に繋げて「静の慟哭」から「動の慟哭」の流れからカタルシスと勇気を貰うか、が常であった。いずれも、感情の起伏に沿った選択だ。

しかし、『真夏の通り雨』の次に『荒野の狼』が来た場合はどうか。初めて聴いた時、まるでテレビでシリアスなドラマを見ていたら急にCMが入ってさっき劇中で悲しく死んでいった女優さんが明るく笑顔で洗剤の宣伝をしているのに出くわしてしまったような、「あ、一旦リセットね」感を感じてしまったのだ。ここでアルバムの流れが一度途切れた。

それだけなら「そういう曲順だから」で諦めもついたのだが『荒野の狼』はBメロからいきなり変わる。ハッキリ言ってこの曲のBメロからサビへの泣きメロの扇情力は過去最高クラスである。宇多田ヒカルにしかこんなメロディーと詞は書けない、と言い切れる素晴らしい展開と構成。もしこの曲がこのテンションのまま、というかサビのコードを下敷きにしたイントロから始まっていたら『真夏の通り雨』からの繋ぎも最高でこの7曲目から8曲目の流れは掛け値無しに「神」と呼ばれるものになっていただろう。そんな想像が頭を駆け巡った。

更にそこから『忘却』『桜流し』と繋げてアルバムを終えていたら間違いなく「宇多田ヒカル最高傑作」になっていたのではないか。『人生最高の日』は、そうなったら、『ともだち』の前あたりがいいかな。兎も角、アルバム終盤の流れとしては珠玉となっていた筈である。

しかし、それは、あクマでアルバムとしてみた時の話。単独の曲としてみた時、『荒野の狼』のイントロがサビと同じコードだったりするベタなパターンより、現在の形の方がずっと興味深くて、個性的だ。だから、それは全く間違っていない。ただ、その個性が強過ぎて、楽曲単一での起伏はスケールが大きくなっていても、アルバムに"dedicate"する結果にはならなかった。それだけだ。どちらをとるかというだけの話。まぁ、ヒカルなら…(黙)。


なお、『荒野の狼』。歌詞はヘッセの『Steppenwolf』とほぼ関係が無い。わざわざ読まなくてもいいですよと、この間日本語訳を全編読んだ者として進言しておく。