無意識日記々

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黒い落とし穴

次のLIVEのオープニング曲は『道』が有力候補だが、では2曲目は何がいいか。『Goodbye Happiness』はどうだろう。『道』の最後のバック・コーラスから『Goodbye Happiness』のオープニングのシナジー・コーラスにシームレスで繋ぐのである。この上なくドラマティックではないか。

なら3曲目は何がいいだろうね…って考え始めるには、まだ早いかな。いつになるやらのコンサート・ツアーを待望するのはいいけれど、一つ一つ参りましょう。


ふと。何故自分が『人生最高の日』を素直に楽しめないのかが不思議でならない。嗚呼、楽しめない、というのは曲の好き嫌いの話ではなく、この歌を聴いてる時に歌詞のままにウキウキワクワクできないのだ。なぜか足元に落とし穴が空いているような感覚がある。

例えばこれが『虹色バス』ならわかるのだ、ウキウキワクワクと見せかけて、楽曲ラストで『誰もいない世界へ私を連れて行って』がやってくるから。『虹色バス』は、その遠足的に楽しいサウンドを楽しめない人に対して、そうやってちゃんと"こたえ"を用意している。だからカタルシスがある。納得できる。

『人生最高の日』にはそれがない。歌詞は、妙ちきりんな四字熟語を連発するのが風変わりなだけで、至極ポジティブ一辺倒の内容だ。そのまま突っ切って僅か3分の曲が終わる。

本来なら、こういう曲はアタマを空っぽにして気楽にルンルン鼻歌でも歌いながら聴くものの筈なのに…なぜか、そうはならない。私は、ですが。

『一寸先が闇なら二寸先は明るい未来』だなんて超ポジティブなのに、私はどうにもその調子に乗れない。『道』で『調子に乗ってた時期もあると思います』と歌われてたのが引っ掛かっているのか…いや別にそんなこたないと思うんだけどなぁ。

何か、全体的に"目が笑ってない"感じがする。件の『一寸先が闇なら二寸先は明るい未来』も、アイロニカルなコマーシャル・メッセージみたいに、つまり、天井知らずに空虚に響く。ロボットに言われているみたいだ。もっと踏み込んで言えば、歌に心が籠もっている気がしない。

で。そう言われてみればと聴き直してみると、確かにヒカルの歌い方が妙だ。いや、妙ですらない、と言うべきか。元気がないのだ、なんとなく。リズムはわちゃわちゃと跳ねているのにヒカルの歌は跳ねてない。もっと言えば、歌ってて全然楽しそうじゃない。

確かに、歌詞の内容がまるでティーン・エイジャーみたいで、33歳(当時)の今歌うにも感情移入しづらいなぁ、というのはわかる。ならば、もっと包み込むように優しく歌うアプローチが有り得ただろう。私も若い頃はこんな楽しい恋をしたなぁ、若いっていいなぁ、微笑ましいなぁと20歳とか年下の、息子や娘の年齢の人たちが青春を謳歌しているのを遠目に目を細めて見守るような、そんな包容力で歌えばとても暖かい歌になったようにも、思われる。

どちらでもないのだ。楽しいのでも、微笑ましいのでもない。かといって下手でもなんでもなくちゃんと歌っている。溌剌としたアプローチをしようとしているようにも聞こえるし、何ていうんだろう、この歌の感情がどこにあるのかわからない。懐かしい喩えを使えば、この『人生最高の日』を吉田美和が歌ったら底抜けに明るく元気な感じになるだろうに、と。aikoが歌えば初々しい春の歌になるだろうにと。しかし、宇多田ヒカルが歌うと何故か虚無になる。なぜか至る所に落とし穴が見える。別にこの歌の主人公が不幸になる事を願っている訳でもないのに、徹底してリアリティが無い。もっと素直にこの歌を楽しめたら、『Fantome』にも超Popな歌があるよ!と声高に叫べたのだが、短く切り上げて間も無く流れてくる『桜流し』の圧倒的なリアリティに、いつのまにか飲み込まれる。何も不幸な事が起こっていないのに、これから起こる訳でもないのに、どこまでも絶望的な曲だ。一体これは何なのだろう。それが理解できる頃には、多分次のアルバムが出ていると
思う。凄くPopにアルバムを彩る筈の歌が穿つ黒い穴。いつか理解出来る日が来るのやら。果たしてそれは私にとって『人生最高の日』となるのだろうか?