無意識日記々

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母の遺影にヒカルの影を見るのだけれど

当たり前だが『嫉妬されるべき人生』の歌詞は創作、つまりフィクションである。別に宇多田ヒカルの半生の事実や決意をそのまま歌っている訳ではない。二度目の結婚生活を終えたと言われている人が『この人と添い遂げる』なんて主張はなかなかできない。この歌の登場人物は、この歌の中だけに在る。

だが、それでもついついヒカルの影を見てしまうのだ。

『人の期待に応えるだけの

 生き方はもうやめる

 母の遺影に供える花を

 替えながら思う』

これを聴いた時に圭子さんの事を思い出すなという方が無理だろう。これによってこの歌にヒカルの私小説的な側面を見出そうとしたとしても何ら不思議は無い。

しかし、あっさりこの歌から宇多田ヒカルのパーソナリティを捨象してしまえればこのパートは「母が生きていた頃は彼女の期待に応えなければと考えていたけれど、今となってはそうする必要もなくなったなぁ」と思うかなりドライな娘像を歌っていると解釈出来ることに気付く。これは圭子さんとヒカルの密接な関係からは程遠い。宇多田家とは何の関係も無い物語として聞ける。

『この人と添い遂げる』『あなたに操を立てる』。この時点でかなりヒカルの人物像から離れているし、更に『人の期待に応えるだけの生き方はもうやめる』んだから母の期待やファンの期待に応えて音楽活動を再開しているヒカルからはそれはもうかなり遠い。『嫉妬されるべき人生』の主人公は、宇多田ヒカルとは全然別の人物だ。

問題なのは、「そんな、ヒカルが共感できそうもない主人公の事を何故ヒカルは歌おうとしたのか?」という点だ。作詞作曲するだけならフィクションを創作しても余り疑問を持たれない。どれだけ秋元康AKB48に歌詞を提供していようが彼がその歌詞の登場人物たち即ち若い女の子達と同じメンタリティーを持つことを期待されることはない。せいぜい、女心や少女期の心理をよくわかってるねという程度だろう。

ヒカルが歌詞の内容を投影されてしまうのは、そう、わかりきった事だが、自分の声で歌っているからだ。その上、今までの歌ではちゃんと自らの主事主張や世界観・価値観などを反映させてきている。『Hymne a l'amour~愛のアンセム』などはカバー曲であるにもかかわらず歌詞を改変させて自身に馴染み深い世界に引き寄せる事までしている。そうまでするヒカルが自分とは全く異なる人生を歩む主人公を描いた歌を歌う理由とは何か。次回はそこらへんの話から─と言いたいところだが週を跨ぐのではてさてどうなりますことやらですわん。