無意識日記々

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彗星と爆弾と龍と父と娘の歌う歌

ちょっと前に2016年を代表する映画二編、『君の名は』と『この世界の片隅で』を観た。事前の評判では、表の名作が君縄で裏の名作が片隅、という感じ(たぶん、上映館数の差の話だろう)だったから、自分の事だ、裏の名作の方を気に入るだろうと思い込んでいたのに実際に観てみたら君縄の方が好きだった。本当、わからないものだ。

片隅の芸風はJOJO同様「読み手の予想を裏切り続ける」事で物語を成り立たせるやり方で、いやそれはもう見事なものだったが、だからこそ、"JOJOのように人間の弱さやエグさを直接的に描く"事をしないのが、まどるっこしく感じられた。勿論その本質に辿り着くまでに丁寧に丁寧に物語を紡ぐからこその傑作なのだが、最初そこからスタートするJOJOが物凄い長さの物語に発展するのを知っているだけに、「俺に用はない作品だな」という風に感じられた。疎外感だな。

そういう個人的な好みの話だ。片隅は紛れもない傑作だ。ようこんなん作ったど。二度と観ないと思…いや、あと2回くらいは観るかな(笑)。

君縄は、もう絵の美しさとRADWIMPSカタルシスに尽きる。入れ替わりとタ○○○○プを組み合わせるというこの作品独自の切り口があるのもよかったが、それは2年もすれば興奮を呼ばなくなる。しかし、絵と音楽は永遠にかっこいい。500年後の人でもその2点は楽しめるだろう。こちらも君縄に負けず劣らず傑作だ。そして、清々しい音楽の使い方が私好みだった。売れる為に開き直れるって素晴らしい。これぞカタルシスである。

ただ一点、君縄で気に入らなかった事がある。お父さんを説得する場面をすっ飛ばした事だ。ある意味、新海誠が“最もうまく切り抜けた”ポイントだが、保守的な父親を娘が何と言って説得するか期待していただけに少々物足りなかった。しかし私にはそんなストーリーの些細な傷などはどうでもよく、RADWIMPSの曲が炸裂すればそれでいい。なお曲単体で聴いてもそこまでのカタルシスは得られない為、これは映画自体に対する評価だと思ってもらっといていい。映画館で、観て×聴いてみるもんだねぇ。


一方深夜アニメでは先日京アニの「小林さんちのメイドラゴン」が終わった。今の私にワンクール滞りなく30分アニメを完走させるだなんてそれだけで既に秀作だ。しかしここでも、最終回、娘が父を説得する場面があってそこがいちばんの鍵なのに、どうにも不完全燃焼で終わってしまって残念だった。「去年の君縄観てへんだんかい…」と思ったのは言うまでもない。

という感じで、最近の私は「父と娘」の関係性が気になり始めたところだった。ヒカルが『Fantome』で思い切り亡き母と向き合った一方、まだまだ元気にマネージャーとプロデューサーを務める父・照實さんとは、今どういう関係なのだろう、と。そこに今日のツイートだ。彼曰く、ヒカルは花粉症に苦しんでいる、と。そしてどうやら場所は日本ではなさそうだぞ、と。スギ花粉だったら大変なヤツだが果たしてどこなんだろうね。

その短い2つのツイートを見てほっこりしているところ。

圭子さんに関しては、難しい面がある。何って『嵐の女神』があったからだ。もし仮に、圭子さんが今生きていたとしても、ヒカルは『Fantome』のタイミングで母と向き合う作品を作っていた可能性がある。今最もヒカルに嫌われる「たられば」を言ってしまった。あーあ。

今となっては、どうだったかわからない。私たちは彼女がもう居ない世界線を歩いていて、それ以外ではないからだ。考えるだけ…無駄…で…あろ…う……

一方。照實さんは元気で、ヒカルは別に父と向き合う歌を作ってはいない。父が歌詞に出てきても『海路』みたいな感じで、完全に他人事だ。普段の生活では接点が無い癖に、制作時期になると膝つき合わせる相手だけに、あらたまって歌詞の題材にする気分にもならんだろう。そうだよねぇ。

そこを敢えて何か書くというのはどうでしょう。縁起でもないが、どちらかが死んでからでは遅いのだ。思いがあるなら、何でもいいから言い訳をみつけて伝えるべきなのですよ。父の日とか誕生日とか、なんでもいいじゃん。2人が今どういう関係なのか知らないが、未来に後悔が生まれないように今振る舞うのは必ずしも悪い事じゃないと思うぞ。