無意識日記々

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犠牲と対価のお話から

そういや高校野球好きだったな。SOHOだとテレビつけながら仕事が出来たからなー。

あたしゃ野球自体は面白いスポーツだとは思うがそれを興行として成り立たせているシステムが嫌いなので素直に楽しめない部分がある。極端に言えば、どんな美味な料理だろうと材料が人肉だと食べた後に初めて言われたら焦るだろう。私にとって日本の高校野球はそんな感じである。喩えが激しすぎですが。

「犠牲」というのは、それだけに重い概念だ。どちらかというと西洋的な思想なのだろうか。"You'll have to pay the price"みたいな表現は日本語にはなかなかない。対価を払う。どれだけの利得があろうと、支払う対価が大きすぎれば人は躊躇う。

逆の話もある。日本の上水道なんかはどうだろう。我々は上水道を止められたらかなり死ぬが、上水道代は驚く程安い。いやもっとも、高い安いを言えるのは経済活動に参加出来ているからであって、その埒外に居る人間には関係ないどころか憎悪の対象だろうが、それは兎も角、文明が発達し過ぎると価値の非常に高い物事でも非常に安価に手に入れる事が出来る。両方の側面があるのだ。


昔に較べてヒカルから"犠牲"を感じなくなっているのは気のせいだろうか。昔は、いろんなものを削って、最終的には生命すら削って音楽を生み出していたように見えていたが、今はもっとこう、無理をしていないようにみえる。

勿論これはある程度錯覚だ。「慣れた」というだけで、ヒカルの創作上の苦悩は相変わらずのようだ。全身全霊になる為に、昔はまず種々の"余計なものやしがらみやこだわり"を捨て去るプロセスが必要だったが、今はいきなりスタートからフルスロットルになれる、即ち最早犠牲を払い終わったあとの状態から始まるようになったから改めて犠牲云々を意識する必要がなくなっただけで、その厳しさは相変わらず変わらない、のだろう。

『生きてりゃ得るもんばっかりだ』は名言中の名言だが、これをポジティブとか前向きとかは正直言える気がしない。未来の誰にも(自分自身にすらも、いや、自然の摂理(≒神)にさえも)期待していないから言える事だ。誰にも甘える事が出来なかった人ならではの一言である。確かに、ここまで来てしまえば犠牲なんて存在しない。

他者をアテにしない態度を極めてきたからヒカルは「シンガーソングライター(&直近ではダンサー)」という道を選んできた。出来るだけ独力でやる。他者の力を借りた時も、うまくいけば儲けもの、という「ダメもと」の精神でやっている、のではないか。結局ヒカルが責任を追うのだし。

しかし、バンドサウンドとなると様子は変わるのだ。そこでは、他人に必ず期待"しなければならない"し、妥協もすれば犠牲も払う。そういう事が一切なく皆こちらの言う事をちゃんと聴いてくれる…のであればそれは既にバンドではない。ただ演奏を手伝って貰っているソロ・プロジェクトだ。バンド活動においては、妥協も犠牲も必要であり必然なのだ。でなければ何人もで結成する意味がない。

勿論中には奇跡的に「全員のやりたい事が一致する」ユニットもあるだろう。しかしそれこそそんな奇跡は狙って作れるものではないし、そんな未来に期待していられる程人生長くはない。

例えばヒカルは今回の『Forevermore』において、ヴォーカルのアプローチやサウンドやメロディーや歌詞やら何やらかんやらに関して"大きく妥協して"いるようにみえる。その対価を払ってでも手に入れたいサウンドがあった。そう考えてみるとすれば、これは確かにヒカルにとって新局面だ。ヒカルが普段の持ち味を殺して迄得たかったものとは? 以下次回。