無意識日記々

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"音の良さ"は現実のナマモノの要

フェスティバルで沢山のバンドを一度に同じ会場で観て痛感するのは、サウンド・クォリティーはやはりどれだけチームとして拘るかでかなり違ってくるという事だ。同じ舞台に立ってても「音の良さ」はバンドによって驚くほど異なる。

ライブコンサート会場で「音の良さ」は文字通り生命線だ。幾ら素晴らしい歌唱、素晴らしい演奏を披露しても音が良くなかったら全く伝わらない。兎に角オーディエンスの耳に出来るだけクリアーな音で届ける事。コンサートはそれが総てだと言ってもいい。

歌の上手さ、演奏の上手さといった「技術の評価」は難しい。コンサート会場にライブを観に来るような熱心なお客さんでも「私、ギターが上手いとか下手とかよくわからないから」と言う人は多い。寧ろ最大多数派だろう。だから、バカテクの演奏者を揃えたからといってウケるとは限らない。しかし、サウンドがキレイかどうかは皆ちゃんと自分の感想を持つのだ。「うわぁ、キレイな音だね。」「なんだこれ、音が悪いなぁ」というのはコンサート会場に来たほぼ全員が言う事だ。

何が言いたいのかといえば、もしヒカルがライブコンサートを開くなら、ツアーに繰り出すなら真っ先に決めるべきは実はバンドメンバーじゃない、サウンドメイクのエンジニアさんなんじゃないかという話。もっと踏み込んで言えば、ヒカル以外で最高のギャランティを支払うべきなのはサウンド・エンジニアさん、或いは自分で機器を操れる音響監督さんだろうと。

現実には各ミュージシャンの皆さんは自分のサウンドの作り方に一家言を持っているものだから、彼らとよく摺り合わせながら会場の音を作れる人材、という事でまずはバンドメンバーを先に決めてからの人選にはなるだろうが、妄欲を言うならまずエンジニアさんを決めて「この人とだったらいい音が作れる」という人を選んでいく、なんてアクロバティックな人選をするのもいいんじゃないの、と思ってしまう。

ヒカルの体調管理、喉の調子は最優先事項だ。バンドのアンサンブルも鍛え上げなくてはいけない。しかし、それを成し遂げても聴衆一人々々に届かなければ意味がない。ヒカルの抜群の歌唱は、それを余す所なく伝える洗練されたサウンドプロダクションが伴って初めて意味があるのだ。


山下達郎などは、サウンドのクォリティーを保つ為に頑なにアリーナよりも大きな会場でライブをしない(野外は別だそうだが)。その為、毎回ホール公演を何十も打つハメになっている。それでも彼の人気からすればチケットの枚数が全く足りず毎回プラチナチケットなんだそうな。しかし、本来、「音の良さ」の為にはそれ位して当然なのである。


ここからが、ヒカルの「ツアーに対するアティテュード」が問われる場面になってくる。「音の良さ」の為には会場は小さければ小さいほどよい。最後はアンプもマイクも取り去って生演奏と生歌だけになれば音の劣化はゼロになる。電気を使って音量を増幅させるから歪むのだ。そして、音量を上げれば上げるほど歪みは大きくなっていく。大きな会場であればある程、「良い音」を出すのは難しくなっていく。

現実として、どこに落としどころがあるか、だ。ヒカルが「来たい人は全部来れるように」とドーム公演とかアリーナ3daysとか大きな会場でやればプラチナチケット化は避けられるだろうが、サウンドクォリティーを保つのは難しくなってくる。かといって山下達郎のようにホール公演に絞ったりすれば、いつまで経ってもツアーが終わらないだろう、皆にチケットが行き渡る為には仕方がない。その間のどこらへんかでバランスをとる。ここでそのバランスを決めるのは結局ヒカルのツアーに対するスタンスなのだ。そのスタンスを明確にする事でツアー規模もエンジニアリングもバンドの人選も何もかも決まっていく。だからまずはそれをハッキリさせなければならないだろう。

そして、それを伝えるのがツアータイトル、という事になる。『In The Flesh 2010』とか『Wild Life』とか妙に肉々しいタイトルが続いているが、ヒカルにとってはそれだけライブは「ナマモノ』なんだろうな。さてどんなタイトルでいつ発表になるのやら。ヒカルのスタンスとアティテュードを一発で伝える秀逸なのお願いしますよ。