無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

flavor of the watery

新曲解禁まで24時間を切ったか。どんな場面でどんな歌が流れるのやら。

で、ツイートがあったのね。ひとまず安心といったところか。仕事の告知なので必要にかられてというか、それに乗じてというか、取り敢えず発言があってよかったわ。

私生活をずっと黙ってるというのも戦略のひとつだとは思うのだが、今更本当に「ミステリアスなヒカル」を演じられても皆ついてこれないというか何というか。

例えば同じ歌姫扱いでも、安室奈美恵浜崎あゆみは同世代でのファッションリーダーであり、aikoは等身大の人生の雛形だった。つまり、歌の良し悪しは勿論の事、「女子の生き方のお手本」としてみられてきた。何を着、何を言うかもまた注目されてきた。

一方、椎名林檎宇多田ヒカルはそれぞれに「真似の出来ない」アーティストとして君臨してきた。椎名林檎を参考にするとコスプレにしかならない。X JAPANのファンみたいなもんだ。生き方云々を逸脱して、存在そのものがアートでありエキセントリックである為、憧れる事は出来ても親しみ易さはない。いや、林檎姐さんはフレンドリーだけどそういう事じゃなく(笑)、彼女の演じる「椎名林檎」は生半可な真似では太刀打ち出来ない、のだ。

ヒカルは、では、何なのか。ファッションを真似しようにも曲毎にころころ変わる。『WILD LIFE』の衣装もどやさドレスからTシャツGパンまでいやはやえらい落差だ。生き方を真似ようったって押し出す銘は「家業としての音楽家」。音楽家の両親を持ってその2人の後を継ぐ生き方、真似できる人はそうそう居ないし、同じ境遇の人が居ても別にヒカルを真似しようとも思わないだろう。同業者でライバルですらあるかもしれない。

したがって、最早「Pop Music Craftsman」としか言えない人なので、作品に関する発言以外はとてもニーズが少ない。服飾の発言も政治的発言も必要ないし、結婚や妊娠や出産だって「お金ならあるわよ」で押し切れる以上、参考になる部分は少ない。まぁせめて微笑ましいエピソードをお裾分けして貰えたらなという程度。なので、そもそもメッセはおろかツイートも…

…というのが理屈なんだが、はてさて、熱心なファンはヒカルの事を「良質な商品(お歌)を提供してくれる音楽職人」としてみているだろうか。否。皆もっとシンプルだ。皆宇多田ヒカルの事が大好きで、大好きな人が故もっと知りたいと思っているだけである。顧客だ商売だ市場だというのは人と人が協力して生きていくためのシステム、カラクリに過ぎない。それは大事だが目的ではない。好きな人の事を知りたい、という単純な欲求がそこにあって、ヒカルはそれに対して"人として"どうしたいのか、という事でしかない。いつも商品を買ってくれるお得意様たち、という見方ではなく、自分の事を好く人たちに対してどう振る舞いたいのか、ただそれのみを問いたい。つまり今更水臭いでしょって事ですよ。