無意識日記々

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dとtの発音がほぼ同じなのがミソ

『Good Night』のサビは、歌詞がシンプルであるが故にヒカルの歌唱の"振り分け"がわかりやすいと言いますかね。

基本、『Goodbye』を7回繰り返して最後の"8回目"になって漸く『Good Night』とタイトルを歌うのだが、『Goodbye』の歌い分け方には工夫が見られる。今回注目するのは『Good』の『d』である。

聴いてみればわかると思うが、7回の『Goodbye』のうち、奇数回目の『Goodbxe』ではちゃんと『Good』の『d』を発音しているのに対し、偶数回目の『Goodbye』では『Good』の『d』を発音せず、『Goodbye』が『Goo-bye』になっている。

「Goodbye」ってカタカナで書く時は大抵「グッバイ」であまり「グッドバイ」とは書かないから、『d』を発音しない事自体に違和感はない。『d』を発音する場面でも実際に出している音は"t"に近く、弱い。だから発音しなくても問題はない。

ならばなぜ奇数回目と偶数回目で歌い分けるのか。もうそれは単純に奇数回目と偶数回目で与えられたメロディーが違うからである。メロディーが違うからそれに合わせて発音も変えているのである。

しかし。確かに奇数回目の1回目と3回目と5回目の『Goodbye』では『d』を発音しているのだが、7回目の『Goodbye』だけは『d』を発音せず、偶数回目同様『Goo-bye』になっているのだ。

これを聴いて、リスナーは意識的であれ無意識的であれ、「あるはずのものがない」という「物足りなさ」を感じさせられる事になる。これがこのパートの味噌である。続く"8回目"の『Good Night』には、最後に『Night』に『t』があって、これが7回目で失われていた『Goodbye』の『d』を"時間差で補填"するのだ。

これがメロディーにカタルシスを生む。ある筈のものがない、とほんの一瞬不安にさせておいて「いやちゃんとこっちにとってあるよ」と時間差で差し出して安心させる。「いないいないばぁ作戦」である。一瞬はぐらかしながら結局期待に応えるこの感覚と、この曲を初めて聴いた多くの人が感じる「やっとタイトルが出てきたよ」という感慨が合わさって、リスナーには『Good Night』の一言が実に心地よく響く。特に『Night』の『t』が着地した瞬間の"やりきった感"は格別だ。このような意図のもとに『Goodbye』を7つ、『Good bye』を1つ並べてあるのです。