前回の補足と補完。内容は大体一緒。
演奏会をただの演奏会に収まりきらない演出で催す美点は幾つもある。“ただの演奏会を”はともすると品評会になりがちで、どうしても技術の巧拙に注目が集まりがちだ。とすると、その演奏発表会を目指す先生としても普段のレッスンからしてひたすら技術指導に費やすだろうしそれは恐らく様々な人々がやってくる現状にはそぐわない。
だが演奏会を「ひとりひとりの人生のドラマを表現する場」と位置づけたらどうなるか。松岡先生の場合はその主軸がハープだった。ハープという楽器の持つ多様な可能性を提示する為には、それこそひとりひとり異なったその人独自の“ハープとの関わり合い方”に焦点を当てる必要が出てくる。
技術を極めて頂点を目指したい人もいれば、単にモテたいから始めたという人もいるかもしれない。逆に好きな人がハープをやっているからとか、娘が始めたのでつられて始めた人や、駅前で広告をみて興味を持ったというだけの人も在るかもしれない。そのひとつひとつがハープという楽器の持つ魅力の賜物であり可能性である。そこのところをできるだけ目いっぱい活かして表現しようという工夫が、今回の演奏発表会の体裁に結実していったのだろう。
観ている方もそのつもりになれれば非常に楽しい。ハープという楽器で一人の先生のところに集う生徒さんたちを20人以上も集めてその上で音楽だけで聴衆を楽しませられるような技量を身につけさせるのは非現実的だ。それより、その人の背景を想像させながら聴かせれば、忙しい生活の中でなんとか練習時間を捻出してここまで来たんだなとか、ご家族に聴かせたい一心なんだなとかいう事が頭に浮かんで、こういうと不適切かもしれないが、舞台の上で何か失敗があったとしてもそれはその人の人生の一部として、その人の表現として機能していく。そこにみえるのはひとりひとりの人間であり、表現を助ける存在としてのハープという楽器の可能性だ。まさに松岡先生は、ハープの演奏発表会を通してそういう群像劇を描いた。それは、普段の生活の中で人生の中で、与えられた環境と勝ち得た資産と実際に巡り合った人々との御縁の総てをフルに活かして結実させたものなのだろう。もっとも、最後の最後で会場にいらしてたお母様との“対話”で自らの人生をも演奏会の演出要素の一つにした事までは、想定外だったのかもしれないが…どうなんでしょうね?w
いかん、この話ちょっと面白いな。もしかしたら次回も続きを書くかもしれませんが暫しお付き合いの方をひとつよろしく。