無意識日記々

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回文:まくらくま

ぼくはくま』というのはこのひらがなの見た目が凄く大事だ。この間これは決して「ボクハクマ」や「僕は熊」ではない、みたいな話をしたが、「ぼ」と「は」と「ま」の字体が似ている事が素直な面白みとして採用されたに相違ない、筈。

ラジオで鹿野さんが仰っていた通り「くま」と「まくら」は対である。眠る前の無防備な時に素直な心で話し掛ける相手。自分の本当の気持ちを気づかせてくれる何か。

ここで彼のエビフライの解釈のように(どういう話かはWEB-ROADに事細かに書いてあるから参照してくれ:https://blog.goo.ne.jp/hiron323/ )自分も深読みしてみよう。ヒカルの歌う「くま」とは「隈」のことであり、「まくら」とは「真っ暗」の事であろう。即ち闇であり影である。また、「隈」には「色の濃淡の境目」という意味もある。白と黒、光と闇の境い目を真っ暗と触れる時に知るものそれが「くま」なのだと。ある意味『Laughter In The Dark』でもある。こじつけの割に意味が通じてるのがちと怖い。

……と、怖さを強調して終わると13日の金曜日らし過ぎて面白くないので別の注釈も書いとこ。

ぼくはくま』の最後の一節は『ぼくはくま くく くま まま くま くま』だ。作詞のセオリー/ルールとして「フレーズ内での子音母音の保存則」というのがある。ただ韻を踏むというより、一定範囲内での子音や母音の数を決め、その組み合わせを変えていくことでグルーヴを生み出していく。キプトラで『お値段』と『ねだり』と『ダーリン』がくるくる回転しながら登場してくるあの感覚だ。この保存則を最もシンプルに援用したのがこの『ぼくはくま くく くま まま くま くま』の一節なのである。『くく』のせいで「く」が1個多くなり「ま」が1個少なくなってしまった。ならバランスをとるために「くま」から「く」を1個引いて「ま」を1個足すしかないじゃないよねしょーがないよねそういうルールなんだからぁっ!…と言ってやっと本音中の本音である『ママ』を捻り出したこのプロセスは、ヒカルが『テイク5』を書き切って漸く自分は生きたいのだと気がついたのと同相である。そりゃアルバムで隣り合わせになるよね。曲順決めたのヒカルじゃないけど。

ぼくはくま』はそういったヒカルの作詞の極意を最もSimple And Cleanに表現し得た楽曲なのだ。自分の本当の気持ちを気づかせてくれる何か。特別に決まってるだろそりゃあ、ねぇ?