無意識日記々

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Last as friends ?

宇多田ヒカルの歌詞のジェンダー論を語るにあたって外せない曲は幾つかあるが、いちばん有名なのはやはり『Prisoner Of Love』だろう。性同一性障害を扱ったテレビドラマ「ラストフレンズ」の主題歌として広く知られている。歌もドラマも大ヒットだった。

とはいえ、ここで先に扱うべきなのはまず『ともだち』の方か。『Time』の歌詞は『カレシにも』から始まり『友よ』の呼び掛けと共に終わるのだ。『ともだち』という語に込められた思いを少しばかり振り返ってみたい。

『ともだち』の歌詞は非常にわかりやすい。友達の関係から恋人の関係に発展したいのだけれどそれが躊躇われる、という話だ。なんだったら『恥ずかしい妄想や見果てぬ夢は持って行けばいい 墓場に』と歌っているのだからそれを諦めた歌なのだとも言える。『ともだち』でいることは、恋人になるのを諦めるという意味だ。

これを『Time』に適用すると、『友よ』の呼び掛けがあるのだからここでの主人公もまた『ともだち』と同じように恋人であることを諦めたのだと解釈できる。実際、それで歌詞の意味は通る。

だが、ヒカルには、上記のように『Prisoner Of Love』がある。ここでは非常に堅い2人の絆がこれでもかと歌われていてそれはもう特別な関係である事を窺わせている。最後には『My baby, say you love me.』だもの。愛していると言ってくれ。これはもう恋人関係確定だよね──と思いきや、中盤にしっかり『あなただけを友と呼ぶ』の一節が歌われている。ここで混乱するのですよ。

ここらへんは、普段のヒカルの言動を追っていないと整合性を取りにくい。例えば『WINGS』は夫婦喧嘩を発端とした歌詞だという話だがここでは何度も『あなただけが私の親友』と歌われている。ヒカルさんにとっては、恋人はおろか結婚した旦那でさえも親友としての役割を持っていると認識しているのだ。ここを踏まえないとよくわからなくなるんだな。

従って、『Time』の『友よ』もまた、そのような言葉の使い方を考慮に入れなければならない。『カレシ』が一方に居てもう一方に『友よ』と呼びかける“恋人”が居ても、少なくとも宇多田ヒカル・ワールドの中では、不自然ではないのである。確かに『ともだち』ではそこのところを明確に分ける話をしていたが、歌詞ワールド全体としてみればそこには留まらない。柔軟な受け取り方が必要だ。カタチだけの関係としての『カレシ』と、友であり恋人でもある『あなた』と、その両方と関わりがあるという風に捉えられると知る所がまず出発点になるだろうね。