無意識日記々

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臆病なPretender's Time

『Time』の曲としてのクォリティーは文句無しだが、ヒカルが何を思ってこれを書いたのかが気にかかる。

素直な言い方をすれば、「あんたこういうのって寝てても書けるんじゃないの?」ってこったね。

宇多田ヒカルは自身に求められているサウンドがどんなものかはよくよく熟知している。なので、いつだってその気になればリスナーを狂喜させれる曲を書けるのだ。ただ当然真っ先に当人が「そんなのつまんないじゃん」と言うのですよ。確かに喜ばせるのはカンタンだけど、とね。

実際、リスナーの好みに合わせていくだけでは縮小再生産なのだ。ジリ貧てヤツ。それを避けるためにヒカルは毎度あれやこれやの手を使ってその度ごとの曲にオリジナルなプラスを宿させてきた。『誓い』なんて幾らでもストレートな歌に出来たはずだが、ああやってリズムに捻りを効かせて「他にはない」独自性を持たせている。『初恋』のどの曲もそうだった。宇多田ヒカルらしさはほっといても勝手に宿るので、あとは楽曲としての生命力、自立心が鍵となる。

だが、これだけセルフ・パロディになり得る要素を幾つも孕みながらどうにも『Time』は二番煎じとかニセモノとかに思えないのだ。どこかに、この曲独自の何かがある。一聴して誰か外部プロデューサーの息が掛かったトラックなんだろうとは思ったが(なりくんだとは夢にも思わなかったけどね)、それを突っ切ってここには宇多田ヒカルがちゃんと居る。たまにはファンをストレートに喜ばせてやろう、だなんて一休み路線とは、何かが違う。

何度も繰り返し言っているが、歌詞は確かに既視感のあるものが多い。コラージュみたいなコンセプトだ。「宇多田ヒカル歌詞ジェネレータ」で作ったみたいな風合いさえ感じる。でも、だから何かがギクシャクしてるとか不自然になってるとかがないのだ。最初に感じた違和感はヒカル以外のプロデューサーの趣味の話で、これは注意深く除去可能だ。そういった要素を(今後)排していっても、それても普通に“宇多田ヒカルの『Time』”がそこに残りそうな気がする。『Blow My Whistle』や『Wonder 'Bout』がそうであったように。

やはり、メタコンセプト的な捉え方をしなくてはいけないのかもしれない。サウンドの“時を戻して”90'sの頃の音をやっている“フリ”をしているような。時間をバウムクーヘンに喩えた人が、敢えて時を戻すフリをしたとしたら、そこにどんな意図があるのか。これがさっぱりわからない。なんだろう、もしかしたらフルコーラスを聴いてもさっぱりわからないかもしれない予感が猛烈にしてきたぞ。そうこうしているうちに今度は「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」の主題歌が登場するとかして総てが有耶無耶になっていくのか。いやはや、本当に時を戻したくなるのは、この『Time』という楽曲を知らなかった頃にはもう戻れない我々の方なのかもわからない。