『詩も朗読すると歌になるので』とはヒカルがCMのメイキングで語っている蓋し名言。これは「文字の集積としての詩」と「声になった詩」がヒカルの中で明確に区別されているから出てきた言葉なのだろう。
故に書籍『宇多田ヒカルの言葉』は歌ではない。歌詞を文字にした文学作品、書物、である。これを更に朗読すればまた「うた」になるのだろうが、元の歌に戻る訳ではない。
サントリー天然水のCMで「詩の朗読」と「歌」を重ねたヒカルだが、最初は上手くいくか怪訝だったようだ。これが馴染むのは確かに不思議。人は、喋り言葉が幾ら重なってもさほど不快にならない(カクテルパーティー効果とかあるもんね)一方、異なった音楽は2つ重ねただけで途端に不快指数が急増する。詩の朗読がうたになり、音楽に近づくならば、『誰にも言わない』という歌とかち合うのが予測されたことだった。それがどうだ。素晴らしい。
CMの映像、処理である。今夜この後配信される音源に国木田独歩の詩の朗読は入っていない(よね?)。だから今悩む事ではないのかもしれないが、恐らく、私たちはこの歌に「話しかけたくなる」のかもしれない。聞いてくれるのだ、こちらの心の声を。詩の朗読が入り込める余白が、音楽に、歌にあった。今その余白は我々に預けられる事になる。とても懐の深くて広い歌なのだろう。
歌でありながら伴奏のような歌詞の響き。伴奏でありながら歌のような存在感。その2つを織り合わせた曲になっている予感。言葉が背景を産み、背景が瞳に映り、歌手と目が合い、心が届く。つい3週間前に(『Time』という)「新曲との邂逅」を果たしたばかりなのに、今感じるのはそれとは全く異なる感慨だ。立会、とでもいうのかな。生まれてくるのを、会えるのを見届けるような。なぜだか、親友の闘病を淡々と語るヒカルの姿が重なる。デビューして21年半が経つが、今がいちばん新鮮かもしれない。心して、迎えよう。