無意識日記々

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A&B or C&D and A or C & B or D

これがヤギでなくて羊なら「『荒野の狼』の話をしているところに迷える子羊とはタイムリーな」とか言って話を広げていったかもしれないが、ヤギか。うーむ、と唸ってしまうな。

狼と羊の対比は明確である。囲いから外には出られないが家畜としてぬくぬく生きている(と思われている)羊と、自由だが自然の厳しさをダイレクトに受ける荒野の狼と。『荒野の狼』では別に羊は出てこないが、『首輪つながれて生きるのはゴメンだね』という一節が出てくる。これは、厳しさに直面しようと自由を選ぶという堅い意志の表れだ。

ヒカルの歌詞といえばかつては「自由より愛」が基本だった。自らの生き方に責任を持ち自らの価値観に従って、心に正直に生きていこう、という“自由な生き方”よりも、愛するが故に運命に絡め取られがんじがらめにされ愛する人や愛そのものに自らの生を翻弄される、という“愛に生きる”のがヒカルの歌詞だった。その究極が『Prisoner Of Love』である。「愛に囚われる」という状態を真っ向から受け入れる強さ。それはまるで滅びがわかっていても敢えてそこに飛び込んでいくような類の美学が漲っていた。

しかし、『Fantome』ではそこにちょっとした変化を感じる。その象徴的な一文のひとつが前述の『首輪つながれて生きるのはゴメンだね』という“自由への叫び”だが、この変化をもたらしたのは何だったのか。

それは『真夏の通り雨』で端的に歌われている。『自由になる自由がある』。短いが、本質をついている。多くの人がこれを「死」、そして「自死」と解釈した事だろう。生きる事は制限ばかりだ。しがらみや妬み、能力的にできない事の数々。それら諸々の煩わしさから本当に解放されるなら死ぬしかない。それこそが真の自由なのだ。そして、人には、自分の心に従って自ら死ぬ自由もある筈だ―そういう“考え方”にひとたび触れてしまうと、自由について考えざるを得なくなる。ヒカルは母の自死を通して、自由についても深く考え始めたに違いない、と思う。

Prisoner Of Love』はヒカルのテーマ・ソングのようなものだ。なにしろ『I'm a prisoner Of Love』と宣言するのだから。『私は愛の虜なの』という風に「私は○○だ!」とここまで力強く言い切る歌はヒカルのレパートリーではあとは『ぼくはくま』しかない。『ぼくはくま くま くま くま』と一度につき4回歌う。3回も念押しする。これくらいやらないと『Prisoner Of Love』の力強さに対抗できない。『Automatic Part2』よりよっぽどヒカルの自己紹介ソングである。

今後は、更に自由と向き合う歌が増えるだろう。しかしそれは、ヒカルが『Mrs. Prisoner Of Love』の称号を明け渡すのではなく、ただもうひたすらに今後も「死」と向き合い続けるからだ。愛と生、自由と死。愛と自由、生と死。その総てを見渡す強さ。君の母さんはこれからも頑張って歌っていくんですよ、ダヌパ君。