無意識日記々

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七回忌じゃなく八回忌、か。

前に福原愛吉田沙保里に「メダル入れポーチ」の制作を依頼された際に「ちゃんと4つ入るかどうか確認したいけど、うちにはメダルが2つしかないなぁ……」と嘆いた、ってなエピソードを目にした時にすぐに私が連想したのは、日本市場歴代(ぶっちぎり)NO.1のCD売上を誇る娘が「でも、母ちゃんは37週連続1位だからなぁ。全然及ばないや。」と嘆いた逸話だった。おまえら纏めて天上人過ぎるだろコノヤロー……ということで、明日は(今日じゃないよ)藤圭子さんの命日です。7年経つのかー。

年月の重みというのは大きいもので、時間が癒してくれるという側面も確かにあるのだけれど、それ以上に、7年も経つと「藤圭子が居ない故に出来上がった数々のもの」の存在のお陰で「もし彼女が生きていたなら」というタラレバを語る気がどんどんしなくなってくる、というのが結構重要なんだと思う。

ドライに音楽リスナー的立場からみただけでも、『Fantome』という傑作は藤圭子の死なくしてはありえなかった訳だし、アルバム『初恋』に於いても『夕凪』や『嫉妬されるべき人生』のような化け物じみた名曲も生まれなかっただろう。もう今更「もしまだ藤圭子さんが生きていて今ヒカルの歌声を聴いたとしたらどんな感想を持つだろう?」などと想像しようとしても、今のヒカルの歌声が圭子さんの不在を前提にしまくっているので、どうにもこうにもうまくイメージが出来ない。「生きていたら」とか「生き返ったら」とかいうのではなく、「霊が帰ってくる」という表現で亡き人たちへの思いを馳せるお盆というシステムはほんとよく出来ているなぁと勝手に痛感する。長年培われてきた伝統的なノウハウは蔑ろにしちゃあいけませんね。ご先祖さまたちの遺したものには一旦敬意を払わないとです。

そして。それが「死を受け容れる」というプロセスそのものであるのだろう。死に立脚した生を積み重ねる事で少しづつ故人の不在を実感していく。自分が生きているという紛れも無い事実が、人の死の実在を強く強く説得してくる。7年分の生と生活に基づいて、その分の時間が死への理解と受容を深める。更にヒカルの場合はこの間に新たな生命を成し今共に過ごしているのだから、感慨も一入だろう。或いは、明日は愛する息子におばあちゃんの話を語って聞かせているかもわからない。もう5歳だもんね。それならまずは圭子さんの在りし日の歌声を聞かせるところから…って、ドスがききすぎてて怖がっちゃったりして(笑)。