無意識日記々

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いとをかし きすをくしする かしのいと

LGBTQ...が市民権を得ていく過程は、個の帰属分類の精微化の過程でもある。「男らしさ」「女らしさ」という二分類が多様化し情報の精度が上がる。ここに於いて肝要なのは、精度を上げる事で倒錯を解消する事だ。

何故「男らしさ」「女らしさ」が煩わしいかといえば、規範として個に強制力がはたらくからだ。元々個体情報の把握の一助に過ぎなかった“性別”という概念が、その高い利便性故に規範として扱われ圧力として個体情報の改変を強いてくる。もともと自分の体型に合った服を見繕って居たはずが、服に体型を合わせようというフェイズに相転移するのだ。故にダイエットは倒錯の一種ではあるのだが話が逸れるからそれは置いておくとして。

LGBTQ…も結局カテゴライズの罠に陥り倒錯が起こり強制圧力が生まれ始めればそれは単に性の種類が増えただけで、生きづらさは依然残る。結局はどこかで倒錯を克服し「もともとただの方便じゃん」と開き直らなければならない。だったら最初っから性別なんてカテゴライズやめときゃいいじゃんね、人を直接見ようよ、というのが「究極的には男も女もない」という立場であり、そこに立てて漸く、本来の問いに戻れる。「男であること」や「女であること」とは、一体何であるのか。

差別と帰属意識は常に表裏一体である。何れも、ほぼ幻想に支えられた概念でしかないが、人は理想無くして生きるのは難しい。こうあるべきという規範は、人は弱さ故に常に追い求めるものなのだ。自由は辛いのよ。まぁ、ダイエットの話だねこれ。

つまりこれは自己と他者の物語であって、性とは「あなた」と「私」で作られた空間において脆弱性からの要請で生まれる何かなのだ。そこから作詞をするからヒカルの歌詞は性別を変えても普遍性を保てるし、弱さと不安で疲れた人の心の奥底に直接響いてくる。同性愛を描こうが異性愛を讃えようが特に形を変える必要は無い。どちらから光を当てて眺めるかが変わるだけだ。

そういう観点から『Kiss』という言葉、ヒカルの使う歌詞としての『Kiss』を眺めてみるのが、『One Last Kiss』という歌の本質にダイレクトに迫る道筋のひとつになるように思うのでこんなややこしい前段を書いてみた。

例えばUtadaの歌詞のように直接『Sex』と言い切るよりは、日本語の歌詞の中で『Kiss』を駆使する方が応用範囲は広い。それは親愛にも性愛にも当て嵌るからだ。異性との時間でも同性との時間でも、母娘の時間であっても『Kiss』は挟み込むことが出来る。『誓い』でも『大空で抱きしめて』でも『Time』でも。

『One Last Kiss』は「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」のテーマソングだからして、まずはシンジくんとカヲルくんのキスシーンがあるかどうかに注目が集まるところだが、勿論組み合わせは他にもありえるだろう。レイでもアスカでもマリでもユイでも誰でもだ。そのどのパターンが来ても『One Last Kiss』は光り輝くだろうことを、はてさて90秒と15秒の音楽から紐解けるだろうか私は。気が向いたらまた続きを描きますね。