無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

性別の壁と言語の壁を二重に駆使して

人種と言語というのはそもそも相関が強いので相互いに影響し合うというのは理解しやすいが、他の組み合わせ、人種と性別、性別と言語の相互影響となると理解するのは少し難易度が増す。

ただ、性別と言語の相関については、特に日本語歌詞の場合には幾らか指摘できる点が現れる。日本語には、男言葉と女言葉があるからだ。

話者が自らを「僕」と呼べば多くの場合それは男性だ、とか、語尾が「ですわ」だったら女性だとか、勿論例外はありまくりだが、幾らかの“傾向”はそれで伝える事が出来る。

それを利用した宇多田ヒカルの楽曲といえば『俺の彼女』がすぐに思い浮かぶだろう。男女のすれ違いを描写するのにミュージカル仕立てっぽく歌詞を歌い分けるヒカル、今またノンバイナリ視点からみたら違う感慨が溢れてきそうだ。シングル曲でもないのに12年振りの全国ツアー『Laughter in the Dark Tour 2018』でアンコール1曲目という非常に重要な位置を任されたのも、ヒカルのこの曲への思い入れあったればこそだったのだろうか。男女がお互いのことをわからないと嘆息する歌詞を、男女どちらの機微も弁えたヒカルが書いて歌ったのだと思うと、これは誰に宛てたメッセージだったのだろうかと訝りたくなる。ヒカルの心の叫びというよりは、戯曲化して他者に問いたい物語なのだろうから。

その他者性を端的に表したのが、楽曲後半でのフランス語の導入である。日本語を解する人は楽曲前半でいわば“神の視点”から男女両者の感情を知る。そして、その事実を知った視点からもどかしいとか早く正直に話し合ってくっついちゃいなよだなんて風に思う訳だが、そのあと突然登場するフランス語に面食らう。何を言っているかわからない。

これが英語だったら、「歌ってる内容がわかってしまう人」がかなりの数に上る。義務教育で英語を教えている土地柄なのでね。ヒカルはそこを避ける為にフランス語を選んだのではないだろうか。勿論、フランス語を解する日本語圏民も一定数居るだろうが、英語に較べれば激減するだろうし、何より、日本語圏内フランス語話者リスナーがいたとしても、「普通、日本語圏ではフランス語は通じない」ことを事実或いは常識として認識してくれているだろう。「この後半のフランス語歌詞を聴いても、大半の人は意味がわからないだろうな」ということはわかるのである。

そういう手法によって、ヒカルは、楽曲の終盤で、リスナーに「相手の言ってることやその気持ちがわからない」「けどなんとなく伝わってはくる…こうなんじゃないかとは思うけど、でも確信は持てない」という風な感情を味わわせる。つまり、登場人物の『俺』が『お前』に対して、『私』が『あなた』に対して感じている「わからなさ」を、フランス語歌詞を歌うことによってリスナーを神の視点から引き剥がして実体験させるのが、このパートの主旨なのだろうかなと私は思うのだ。

そのように捉えた場合、性別の壁と言語の壁を二重(ふたえ)に重ね合わせて楽曲の歌詞を構築したヒカルは、知らず知らずのうちに、性別と言語の持つ二項対立性を混ぜ合わせて表現するに到った訳だ。いやはや、なんだろう、この人とんでもなく凄いシンガーソングライターだなやっぱ!(なんてありきたりな結論なんだ俺よ)