無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

If you take it for granted unconsciously

前回はヒカルの

『その一個の勝負に勝つことが目的でやってるわけでもなくて』

という一言に対して

「一回こっきりの勝負に賭けてる人が挫折すんのよ!」

と楯突いてみた。無駄な話もしちゃったけど。今回はもう少し範囲を拡げて、挫折についての一般論を語ってみる。

挫折の構成要件で大きな面積を占めるのは

「無自覚な期待」

だ。自分がそれに期待している事を自覚していない、理解していない、意識をしていない人が、挫ける。折れる。

「それ」とは何か。前回高校野球の話を出したのでそれに準ずれば、例えば自分は野球が上手いから名門校に推薦で入学できる筈だ、とかレギュラーポジションが取れる筈だ、とか必ず県予選で優勝して甲子園に行ける筈だ、とかいった事を、明確にではなく“何となく当たり前の前提としてしまっている”人が、挫折し易い。自覚していないと、意識していないとそこに批判的な検討や洞察が加えられない。「もしかしたらもっと凄いやつがチームメイトに居てレギュラーの座は安泰ではないかもしれない」とか「中学の時のチームメイトが進学したあの高校はうちより強いかもしれない」とか、考えてみれば当たり前のことを考えない。こういう人は躓いた時に立ち上がれない。そんな所で躓くなんて思っていないから何の準備もしてなくて慌てふためき狼狽える。予定表にはそこ「徒歩5分」とだけ書いてあるだけだからね。下駄の緒が切れて歩けなくなるとか脚を挫いて動けなくなるとか、そんな事を予想していない。だからどうしていいかわからなくて混乱したり絶望したりする。

挫折しない人はそういう態度はとらない。「人生一寸先は闇」を毎日毎秒実践していて、どんな時も常に「自分の想定外の出来事は起こるものだ」と思って人生を歩んでいる。更にその上で、例え何かで失敗や失態があっても『二寸先は明るい未来』と笑って歌えるのだ。そう、宇多田ヒカルが「挫折なんてわからない。そんなのはただの概念(思い込み)。」と言うのは、正に本当にその通りなだけなのだ。何があってもめげない。やると決めたらやるし、やめると決めたらやめる。ただそれだけのことなのだ。

故に、挫折という思考的枠組みから解放されるには呪文のようにいつでもその『人生最高の日』の『一寸先が闇なら二寸先は明るい未来』の一節を歌うのがいい。躓いたら、埃を払って立ち上がればいい。足を怪我したなら、じっくり癒せばいい。元通りという意味で治るかどうかはともかく、兎に角、「そもそも自分は何が欲しかったのか」を常に顧みる事が肝要だ。甲子園で優勝したいと思ったのは何故だったのか、それは人生の中でどういう意味を持つのか。大学野球で優勝するのでは駄目なのか、日本のプロ野球アメリカのメジャーリーグは…いやそもそも、プロになるって…とか、そういう自らの目標設定を徹底的に自覚して洗い直していける人は挫折にどんどん強くなる。どんな失敗もトライアンドエラーのプロセスのひとつに過ぎない、と笑い飛ばせるくらい豪胆になれれば、挫け折れる必要のない場面で挫折しなくて済むようになる。

とはいえ人生は一期一会。たった1回巡ってくるチャンスなんてのもあったりする。ハレー彗星観れるの一生で一度か二度、みたいなね。でもそもそも、なぜハレー彗星が観たかったのかというところにちゃんと立ち返って、自分が当然のように前提にしているものがなんなのかを常に洗い直せるようになれれば、失敗体験を美味しいと思えるようになりますよきっと、という話でしたとさ。…あれ?今回の日記単に俺がひたすら語っただけじゃね? ま、いっか。