無意識日記々

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仕事・親密・対話・同化

前回書いたことを(自分の頭を整理する為に)もう一度纏め直してみる。

母親譲りの歌声を最大限活かした作品群─『Automatic』や『Can You Keep A Secret?』や『Prisoner Of Love』のような─は、例えばレストランのシェフが我々に振る舞ってくれる料理のようなものだ。それはヒカルの「仕事」「作品」であって、我々は席に座って料理がサーブされるのをただ待っていればよい。後は舌鼓を打つだけである。

『光』のような曲は、仕事というより、プライベートでヒカルと接するようなものだろう。仕事ぶりよりその人となりと接する。我々と人間同士として触れ合うそんな親密さがある。

『Passion』のような楽曲は、そこから更に踏み込んで、ヒカルと様々な言葉を交わし合って考え方や思想、哲学といったものを知る段階だ。そこからヒカルの人間性や仕事ぶりが導ける所まで網羅してるからこの曲は凄いのよね…。

その『光』と『Passion』のちょうど中間くらいに位置するのが『誰にも言わない』なんだけどこの話はまた長くなるだろうから今回は置くとして。

『気分じゃないの(Not In The Mood)』は、お金を払って仕事を提供して貰う関係性でもなければ、友人として親密に接する関係性でもなければ、一緒に語り明かすような関係性でも、ない。いわばそれらは、順を追って「宇多田ヒカルがどういう人なのか」という事を、ヒカルにより近づいていくカタチで示してきてくれた。ヒカルも、得体の知れない大衆を相手に徐々に自分を曝け出していってくれた訳だ。

『気分じゃないの(Not In The Mood)』に至って、我々はヒカルに「なった」。なったといっても、物凄く歌が上手く歌える訳でも無いし、オールストレートAの成績が取れる訳でも無いし、出会った人を魅了する素敵な笑顔が出来る訳でも無い。その“なる”ではなくて、もっと受け身な、受動的な性質の話だ。宇多田ヒカルの目や耳を通すとどのように世界が見えているのか、どのように物事を受け取っているのかがここでは表現されている。故に我々はこの曲によって、2021年12月28日のロンドンにワープして、そこでカフェやバーに居るヒカルの姿を目にするのではなく、ヒカルの目を通してその様子を眺めることになる。これは確かに、ヒカルに「なる」ことだ。

これが何故驚異的なのかといえば、表現活動というのは非常に能動的な営みだからだ。筆を動かすのでも歌を歌うのでも踊りを踊るのでも、なんであれ、情熱に突き動かされてようがやる気がなかろうが、ひとつのまとまった運動を我々は制御する事、それを表現活動という。それは能動的どころか能動そのものであって、ただ見るとか聴くとかの受動的な営みとは対極にあるものだ。お正月にコタツに寝そべって延々テレビを眺めている事は表現活動とは呼ばない(人間にとってとても大切な時間だけどね!)。だが、それだけに、そういった受動的な状態を“表現”するのは、極めて難しい。

歌う時に「私は歌う」と歌うのは、メッセージとして成立しやすい。まさに今歌っているのだから説得力がある。みたまんまなのだから説得するまでもない、と言うべきか。しかし、「私にはこう見えている」というのを“伝える”とすれば、それは途方に暮れる。本来なら『差し出されたコーヒーカップ』と歌われた時に我々はヒカルになれない。隣のテーブルからヒカルにコーヒーカップが差し出されたのを眺めるだけになるのだ。何故なのかは全くわからないが、『気分じゃないの(Not In The Mood)』はここをクリアしてきやがる。ヒカルの目線を共有できるのだ。何故そんな事が出来ているのかはサッパリわからないが、この歌を聴き終えた時に感じる「宇多田ヒカルの実在感」は、ヒカル自身の本名を冠した『光』のそれをも凌ぐ。そして、その尊さに気が遠くなる。

この領域はヒカルにとってもまだ始まったばかり。締切ギリギリに出て来た歌詞なのだから。しかし、だからこそこれから未来にやるべきことは山ほどある。あなたが『BADモード』の最高傑作ぶりにまだまだ慄いているのなら、今後のヒカルの活動は心臓によくないレベルとなるだろう。本当に注意と注視が必要になるぞいや。