無意識日記々

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歌とラップをシームレスに捉えるルーツ?

またもやつやちゃんさんインタビューからヒカルの発言を引用しよう。

宇多田ヒカル:私は、言葉を音楽に乗せるというのは凄く自然なことだと思います。言葉自体にピッチもリズムもあるから、今私がこうやって喋ってるものも、録音して音楽をつければもう歌になる。言葉と声自体にも音楽の要素があって、その伝え方(の違い)ですよね。ラップにしても、オペラの中で凄くエモーショナルに演技っぽく歌うにしても、超絶技巧的な歌い方があるにしても、スポークンワードみたいなものがあるにしても、喋っているものをサンプリングしたとしても、言葉をどう届けるかというのは同じですよね。』

今までヒカルがこういう考え方をできるようになったのは小さい頃から両親にジャンルの分け隔てなく音楽を与えられてきてたからかななどとと漠然と思っていたのだが、「リトル・マーメイド」のサントラを聴いて、ひょっとしてこの作品が具体的なルーツなのではと考えるに至った。

前回触れたとおり、この映画はミュージカルであって、登場人物たちが歌うように喋り喋るように歌うことで全体の構成がシームレスに繋がり合っている。このサントラをずっと聴いていればイメージの中で歌と喋りが混ざり合い繋がり合うのはとても容易で自然に思えてくる。

確かに、ヒカルの歌というのはラップと歌の境目がないというか。まるっきり音程がない純粋なラップというのは『Too Proud (Laughter in the Dark Tour 2018 version)』くらいで、例えば『Making Love』や『誓い』の中間部などは、音程はしっかりあるけれど少しラップ的なニュアンスもあるパートといえる。ここらへんのシームレスな感覚を、ミュージカル作品で培ってきたかもしれないという着眼点は(あたしの中では)今まであんまりなかったかもな。

そして、それとも繋がるのだが、ヒカルの異様な“歌詞の作り”への拘りぶりもまたこの作品が由来だとすると結構合点がいく。その拘りとは、例えば切なさを表現するときにはこの母音を活かすとか、子音の配置を循環的にする(kの音を1行目では1文字目に、2行目には2文字目に、、、等々)とか、格式張った言い回しと日常会話的なフレーズ同士で韻を踏ませるとか、様々な宇多田ヒカルならではの技巧がこの「リトル・マーメイド」のサントラにはみてとれる。歴史的には、ミュージカルの技法というのはそれより遙か昔から連綿と受け継がれているのでこの作品がそういった手法のオリジナルということではないのだろうが、今大事なのは、6歳のヒカルが実際に出会ったのがこの作品であったという現実の経緯であり、これに感銘を受けたという事実そのものなのだ。そして、そういう伝統の技法が確かにここには息衝いている。

特に、ほぼ主題歌である「Part Of Your World」を歌うジョディ・ベンソンの力量が大きい。宇多田ヒカルとミュージカルという本来全くと言っていいほど相容れない組み合わせで考えたとき、彼女からの影響は随分と大きいように思えてくる。次回はそこらへんの話から。