無意識日記々

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前回「… ?」をつけた理由を独り言ちるの巻

前回の日記のタイトルは「No Rain, No Rainbow ... ?」だった。

「No rain, no rainbow」とは、「No music, no life」が「音楽がなくては人生ではない」だったのを思い出せば「雨が降らなければ虹も架からない」という意味だとわかるのだけど、これをどう解釈するか、人によって幅があるかなと思われてな。

雨降りは「辛いこと」の比喩だろう。勿論雨降りが好きな人(傘屋さんとかもね)も居るだろうけど、差し当たってね。その比喩に基づくと、これは「今は辛いかもしれないけど、これもきっといつか終わって素敵なことが起こるよ」と励ましていると解釈する人も居れば、「辛いことを耐え抜かなければ成果も得られないよ」と解釈する人も居て。あたしは後者の解釈をする人に向けて前回のタイトルに「…?」をつけたつもり。

どうにもこれ、あまりよくない気がしていてね。何かの成果を得る為に必要な事は、それを得る為に正に必要な事をすることだ。まるで同語反復だが、この基本をまるっと失う場面を余りに多く見てきた気がすんねん。(唐突な関西弁語尾)

これが転じて(最早論理的に同値でないところにまで飛び火して)「努力は裏切らない、必ず報われる」とか、上記のような「辛いことを経ないといいことは起こらない」みたいな精神論が生まれてくる。闇雲はどこまでいっても闇雲であってきっとずっと光は射さないよと言ったら冷たいヤツだと謗られる。やれやれ。(特に気にしてはない)

無駄なことは幾ら頑張ろうが耐え抜こうが無駄だ。目的に合うことを見極めてそれを実行すること、合うか合わないかが何より大事なのであって、苦しんだり傷んだりする「必要」はどこにもない。苦しみや痛みは「それをとっとと解決しないと何か悪いことが起きますよ、或いはもう起きてますよ」というシグナルであって、良いことが起きるシグナルではないのだ。治すか逃げるかしないといけない。

なのに、これが高じると「私はこれだけ頑張ったのだからむくわれるべきだ」みたいな話になる。いやもう待ってよと。

逆の弊害もある。生きてると運良く自分に都合のいいことが起こることもある。サッカーで言う「ごっつぁんゴール」みたいなやつ。何十メートルも必死に走ってきたとか持てる技術を出し尽くしてドリブルやパスを繋いできたとかではない、たまたまそこにいたらボールがやってきたからちょんと足や頭を出しただけでゴールしたみたいな、ああいうヤツね。どんな過程を経ようがサッカーの大きな目的のひとつはゴールなのだからそれは間違いなく真正の成果なのだが、こういうのを軽んずる風潮が出てくる。「運も実力のうち」ってわざわざ言わないといけないんだものね。

無駄な努力に報いを求めるし、正当な成果を軽んずる。そういうのは本当に、よくない。生真面目な性格だと「私まだちゃんと頑張れてないんだから報われちゃいけないんだ」とかまで言い出す。「ラッキー!ごっつぁんでーっす!」って“言わなきゃいけない”場面が人生には沢山有るのになぁ。

ヒカルさんが落ちてるモノを見つけて写真に撮る行為は、そういう風潮からいちばん遠いところにあるような気がしててね。気がつくかどうか、なのよね。価値を見出せるかどうか。その瞬間に遠慮なく手を出せるか。無駄な事をしていたとに気がついた時「あら、私間違ってたわ」って素直に認めて撤退出来るか。

結局は、その瞬間毎に、ちゃんと自分の五感で感じとって心を通しているかどうかが問われる。これは私の好きなヤツだと気がついた瞬間にすぐ手を伸ばさないと、それはもう永遠に手に入らないかもしれない。そういう意味で努力至上主義みたいなのは私嫌いだな。何が「目的に合う」行動なのかがわからない段階では「数撃ちゃ当たる」と試行錯誤を繰り返すものだけど、常にアンテナを張ってないと当たった瞬間を見逃しちゃうんだぞ。ヒカルさんは、そのアンテナがずーっとキラキラしてるから、あんなに沢山絆創膏を見つけられるんだろうなぁって、思ったわ。歳を経ても絶えない目の輝きって、そういうことなんだろうなって。