無意識日記々

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セレンディピティの女神さま

「無駄な努力は無駄」と切り捨てるのは冷酷な印象を与えるだろうけど、話の順番で。大事なのは目的が「いつ」自覚されたのかということ。

最初に目的がハッキリしているなら何が無駄で何がそうではないかは自ずと明らかになっていく。勿論、その判断が誤りであることも多々あるだろうが、それを誤りと判断できる事が「ハッキリ」の定義でもいい。手段はそれに伴って明確になっていく。

だが、世には目的が「後から」決まる場合、決める場合がある。わかりやすくいえば、無駄な努力が無駄だと判明したなら、目標設定を変更すれば無駄ではなくなる。実地にはこの「目標設定変更」が明示的でなくあやふやなままプロジェクトが進んでいってしまうものだけど。会社の約款の工夫とか思い浮かぶわね。

『One Last Kiss』の人力ベース収録も、本来の「クック氏がバックトラックを全部打ち込む」という目的、意図からすれば無駄といえる。しかし、「最終目的」は「エヴァへのトラックの納品or宇多田ヒカル新曲リリース」であってその内容はプロデューサーであるヒカルが選別すべきものだ。最終目的に対して中間の小さな意図の数々は、好きに変えていいのだ。

ここで「当初の目的」を変えられるかどうかが実地上の問題になることが多い。どうしても、「水泳をしようとトレーニングを始めたら陸上の方が合ってた」という時に水泳部から陸上部には転部しづらいのが現実だ。この目的変更難易度の高さは突き詰めれば「お上のいうことには従う」という気質がある気がするがそんな文化論は置いておいて。まぁ確かに「今居る学校に馴染めない」からといって「他の学校に行くために引っ越そう」はハードルが高いので「今居る学校に自分を馴染ませる」方を選びがち、いや、選ばせがちにはなるかもしれないが、その思考回路が異なる前提条件の時にまで過剰適用されるのが問題なのよね。カレールー買い忘れてたのに気がついた時点で今夜の献立を豚汁に変更したっていいのよ。誰とも献立を約束していなければ。

本来の意図ではなかった「打ち込みサウンドに人力ベース」というトラックの誕生をさして「人と人あらざるものの対峙を表現していて、音源提供先のエヴァのコンセプトに合致したものが完成した」と、それを「その時点では設定されていなかった目的を達成した価値のあるもの」と評価したのは、ええと、端的に言えば「私が今ここで端的にやったこと」なのよ。でしかないのよ。価値は、そうだと言った者がそこに現れた時点で生まれる…と表現すると外連味がありすぎるけれど、斯様に目的設定が前段ではなく後段、それも最後に行われてもそれはそれで問題はない。「『One Last Kiss』のトラックをクック氏が総て準備する」という目的はもっと大きな「トラック納品」という目的の中では手段に過ぎないのだから。

もっと言えば、途中で「シン・エヴァにトラック納品」という大きな目的が、「宇多田ヒカルのキャリアにマイナスだ」という風に、更にもっと大きなスパンでの価値判断と目標設定に基づいて何処かで判断されたとしたら、納品自体を断ってもよかったのだ。

勿論現実にはそんなことは起こり得そうもないが、目的と手段というのはこのように、常に有機的に変動する、変動させるべきものであって、どちらにも拘泥するものではない。勿論、次々と襲い来る逆境を悉く打ち破って当初の目的を完遂する人は素晴らしい。大谷翔平なんて今やどこにいっても絶賛ばかりだが彼の人生は大半が逆風だからね。それでもまったくめげなかったから今の絶賛がある。そんな彼も当初の「高校からメジャー」という大きな目標を途中で変更してる。臨機応変てほんと大事。

なので、セレンディピティというのは、普段からの柔軟性と臨機応変さを心掛けることで、常にではなくても出会いやすくはなるという話でしたとさ。