無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

「画家も音楽家も同じね」という傍線

昨日のインスタもほっこりしたわねぇ。

@kuma_power :

親子(とくまちゃん)で読書する日曜の朝

Sunday morning reading time with my son and Kuma

https://www.instagram.com/p/CwuWJ3wsQ9j/

なんという穏やかな時間だろうか。幸せってこういうのを言うんじゃないの?とか今言ったら『Gold~』の歌詞に追い立てられちゃいそうだけど。

開いてる本はハッシュタグにもあるようにフィリップ・ガストン著「見たいものを描く」とかいう書で、この1ページを見た感じだと画家による創作に纏わるエッセイなのかな。多分、多くのファンにとって余り興味のある話題ではなさそうだけれども、ページを開いて傍線を引いたセンテンスが2つある写真については気になる人も在るかもしれないな。

最初の方は

“Decisions to settle anywhere are intolerable.”

と書いてある。グーグル先生に訳して貰うと

「どこかに定住するという決断は容認できない。」

だそうな。まぁ前後の文脈無しだとこうなるか。もうちょっと砕けて、

「落ち着けちゃうのは耐え難い」

辺りが妥当だろうかな。

いやそんな翻訳の詳細はいいんだ。ここで知りたいのは「ヒカルが何を思って傍線を引いたか」の話だわね。

この文には2つの側面があって。作品の創作というのは本来終わりのない営みであるから、どこかの時点で「完成」をさせるには、その営みを中断させないといけない。そしてそれを誰かの目に曝さないといけない。

今回も(今回に限らず、だね)、新曲『Gold~』に関して「書き下ろしではない」旨をヒカルは強調していた。オファーがあってから書き始めるのでなく、既に手許にあったものの中からオファーにそぐうものを選り出してそれを仕上げていくということだろう。

いわば、「まだ全然落ち着いてはいない素材を完成品として落ち着かせて世に問えるカタチにする」作業が、オファーとそれに伴うデッドライン(締切ね)によって発生したようなものだ。そしてその作業は常にDecisionsが伴う。「決断の数々」だね。素材を完成品にしていく為に、歌詞はこれがいいかあれがいいか、アレンジはどっちがいいかこっちがいいかと常に判断と決断を迫られる。完成させなきゃいけないからね。考えられる他の可能性を悉く切り捨てていく苦痛と、出来上がった完成品に対して「本当にこれでよかったんだろうか?」という苦悩を抱く。これがintolerable=耐え難い2つの側面なのだ。

恐らく、ヒカルはプロデューサーとして常にこの「決断の数々」を迫られる立場にあるから、この箇所に傍線を引いたのだろう。「あるある、わかる~」という共感である。画家も音楽家も同じだよね、っていう。

そして、そのページを開いてこうやって私たちに示してくれているからには、そういった耐え難い苦痛と苦悩をもって創作にあたってることをわかって欲しいという気持ちも…あるのかな? このインスタの写真を撮ってアップロードすることもまた表現活動の一環だろうから、ここでも悩んでいたかもしれないね。…8歳児の隣で何読んでんだよって話だけど(笑)。後者の傍線についてはまた次回。