無意識日記々

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知性溢れる歌声を切り刻まないで

前回あれやこれやと書いたが、創作活動の中でAIをどこまで使うかは相変わらず悩ましい。

例えば、画面アスペクトが4:3の時代の映像を引っ張り出してきて16:9にする為に両端をAIで補完して…だなんてことも出来てしまうだろう。けれどそれをして貰って嬉しいかというとそんなことないわよね。そんなん別に4:3のままでいいじゃんか、ってなってしまうわ。

ただひとつ、AIに『Automatic』のPVを入力して「両端と上方を補完せよ」と命令したらどうなるかだけは、ちょっと興味あるけどね。当時携わった人たちの間でも幾許かの見解の相違がみられる中で、第三の見方が生まれたら面白い。でもまぁ、それくらいかな。

そもそも、現況は新しく商売をしたがる人や組織や国家などに押し切られている感がアリアリなのだけど、今の生成AIってのは既存の創作物を超大量に入力して統計的な処理を施しているだけなので、本来なら入力された創作物には利用された著作物として著作権使用料を払われなければならない、というのが原則だ。余りに関わるデータ量が膨大な為実際上はわからなくなっているが、原理的にはどの創作物が参照されたかはわかる。というか、わかるようになっていないと計算機は計算できないのよね。今でもやっぱりでっかい算盤のままなのだ。ぶっちゃけ、慣例だから自分もAIと書いているけど、これを知能(Intelligence)とはあんまり呼びたくない。このシステムを構築した、プログラムを設計した人、人たちは知的で創造的だろうけども。

それが私の現状認識なので、あんまりヒカルには現代のAIは使って欲しくなかったりする。あ、商品化されるものに対しては、ね。前も触れたように、創作の過程での効率化などには使って貰って構わないというか、便利だろうからバンバン使って欲しいのだけど、それも上記のように著作権法的に…というか、著作権の精神に則って考えると非常に危なっかしいので、グレーな領域からは距離を置いた方がいいのかな、残念ながら。

何より、宇多田ヒカルってのはむしろ「AIに利用されていく」方の立場の人間だわな。ヒカルの歌唱データを勝手に使われて、いろんな曲をヒカルの声で歌わせるっていう。人力ボカロの時はまだやり過ごせてたけれど、今の時代はそういった音源が量産できてしまうんだもんねぇ。そういった事態を鑑みても、結局今のところはある程度距離を置こうかとなる。利用するにもされるにも。

勿論、前回のように、「時代が進んだから状況が変わった」為に、将来はその距離感も変える必要が出てくるだろう。でもそれはそうなった時の話。今はまだそうなっていないので、ヒカルの歌声をヒカルの知性と不可分なままで置いておいて欲しいわね。「そこにある知性」を感じ取れる歌声は、そうそうエミュレートは出来ません事よ?