前回「シミュレーション仮説や量子力学の話は煙幕か」みたいな事を書いたけど、これについてのヒカルのコメントを振り返ってみよう。
『そもそも、私たちは存在しているのか?とか、最近シミュレーション仮説とかいろいろあって話題になってますけども、その存在とか真実の不確かさや主観性って凄く面白いなってずっと思ってて。もう人類にとってそれって永遠のテーマなんじゃないかなと。古代の宗教に始まり、そこから哲学とか、学問とか、こんにちの量子力学に至るまで、例えば量子力学で私たちが現実と思ってるものは、観測されて初めて存在するんじゃないかとか言われてるし、そりゃあ何かを信じるのって怖いよなぁとか、勇気の凄く要ることだよなぁと思うし、対象が人でも概念でも、何かホントは信じたいんだけど、何かを信じられない時っていうのは、本当の問題は、自分が自分を信じられてない、自分を信じれることができてないってことなんじゃないかなと思って。相手とか、その対象っていうのはあクマで自分への不信感を映し出す鏡、みたいな。だから、結局は自分を信じられないと、何も信じられないんだなって最近気づきまして。』
こういう話題を出してきた時って何をどう書いたものか悩むのよ。ミュージシャンやアーティストって、「問題の捉え方」がそもそも違うのね。最もわかりやすかったのが2011年の震災についてで。『桜流し』をリリースした時にヒカルは
『監督からエヴァンゲリオン新劇場版Qのテーマソングのオファーをいただいたとき
「もしも表現者であるならばこの震災から目を背けて作品を作ることは決してできない」
という言葉に共感し、引き受けました。』
って言ってるのね。この「表現者であるならば」ってのがポイントで。震災という事態・事件に直面した時に、表現者〜アーティスト/クリエイターってのは、極端な言い方をすればそれを創作活動のモチーフ/モチベーションとして捉えてるのよね。ここらへん、実務に携わる人達とはもう最初っから論点が違っていて。地震が起こったさぁどうしよう、というときに実務者は津波対策をしようとか耐震構造はどうだとか避難所の運営はどうだとか、そんな事を考えてそれを実行に移すけど、表現者の皆さんは、そこからどんな感情を喚起されたかって視点から物事をみるのね。この事態に直面して人はどんなエモーショナルな体験をしたか、そんな所から。
実務との対比という書き方をしてるけど、それがエモーショナルな出来事であるというのは紛れもない事実なので、そういった表現者たちの活動は、事態に巻き込まれた人々にとってぐちゃぐちゃの感情を作品との出会いとして整合させる作用も持つので決して無駄や無意味なんかじゃない。大なり小なり人間は誰しも表現活動にあたる営みを携えていて、表現者〜アーティスト/クリエイターというのは社会の中でそれに特化しているというだけのこと。
なので彼らは、何か起こった時にその時起こる感情や感覚に注目する。普通に事故で肉親を失った時は家族全員で弔うけど、震災のときは家族全員をたったひとり生き残った自分が弔う事になるとか通常ではなかなかあり得ない事態に直面したりするのでそういうときに人はどんな感情に相対するのかとか、そういう事柄についての作品が、小説やドラマやアニメや歌や詩として存在していればどれだけ心強いかということ。
表現者はそういったものの見方をする。そういう観点に立った時に、ミュージシャンが歌詞を書くにあたってシミュレーション仮説とか宗教とか哲学とか量子力学とかに触れているのは、それぞれの分野に直接携わってる専門家たちとはそもそもの立脚点、問題意識が違うのね。もっと品無く断定的にいうと、歌詞の素材として使えるかどうかでみてるのよ。めっちゃ極論だけど。だからヒカルがそういったよくわからない単語を出してきた時に注目すべきはそれぞれ言葉の意味の理解というよりは、その話が出てきた時にうちらがどんな感情を喚起されるかという方なのね。決してそれらの仮説や問題意識に対して解決方法を探るアプローチとかを欲しているのではないのですよ実際に問題に取り組んでる人達とは違って。
で。今回の場合は、それらのイシューを目に耳にしたときに人が感じる「実存的不安」に目をつけてるんですのよね…という話からまた次回、かな。