無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

無貢献なぞ無問題

案外AIの話ってニーズあるんかな!? どれくらい関心を持たれてるかようわかってないわ…。

斯様に(特に計算機に関する)科学の発展速度には驚くばかりだが、科学の本質はいつも言ってる通り「謳う自由と疑う自由」だ。「これが真理だ!」という確信と「それは真理か?」という疑念が営みの原動力であって、それは純粋な内面の話に他ならない。どんな人であれ仮説を主張していいし、どんな人であれその仮説を心ゆくまで疑っていい。信じることを強制されたり疑うことを罰せられたりすることは一切無い。そういう意味では宗教の一形態なのだが、世に現実に蔓延ってる宗教が一神教に傾きがちで、疑う自由を奪いたがる事を考えると言葉遣いには気をつけたくなるな。

そして心ゆくまで疑ってもらうことで真理としての知識が時間を積むのに従いより強固なものになっていくのが科学の営みなのだが、結局は終始人々の内面の話でしかないのだ。自由って内面のことだからねこの場合。

さてそれは一旦置いておいて。多分この日記を定常的に読みに来てくれる人は(ほんま頭が上がりません)恐らく「きっとこの人は心底宇多田ヒカルが好きなんだろうなぁ」という風に思ってくれているかと思うが、何よりそれが伝わることが一番肝心なところだと私は思うのだ。普段は「この人は作詞や作曲や音作りや市場のことにも詳しいし、英語もちょっとわかるから宇多田ヒカルについての小咄やある程度の情報なんかが得られるから読みに行こう」という風な理屈で来て貰ってるかと思うけど、そう思って貰えるのもヒカルに対する愛情が疑われていない、疑いようがないからだというのがそもそもの大前提としてあって、それが意識されないくらい、無意識下に仕舞っておいて大丈夫なくらい信用されてるのが何より大事なんだと、私は信じている。

これが幾ら博識で情報豊富なブログだからといっても何か他の目的を持っているように疑われたら余り読みに来たくならないのではないか。アフィリエイトで稼ぐ為だったり、自己顕示欲や承認欲求を満たすためだったり、そういった事柄が愛情表現よりも優先され始めたら冷められるんじゃないかな。結局は、情報や翻訳を与えてくれるからというよりは、「この人も私と同じように宇多田ヒカルが好きなんだなぁ」という信用が何よりの支えになっているのかなと。

勿論、当方としては幾らでもそれを疑って貰って構わないのだが、助言を求められたら「疑うのは時間の無駄だよ…」とは言い添えたい。まぁでも、時々色々と抜けてるから、そこは教えて貰えると嬉しいんだけどね。

それは、私も同じなのですよ。あぁ、この人はヒカルが好きなんだなぁ、あたしと同じ事や似た事を感じてるなぁと思えたらその人の事が意識下に入るというか仲間意識が芽生えるというか気に掛けるというかフォローするというか(笑)。その人が私に何かを与えてくれるから人間関係を持とう、という風な発想はない。もっと言えば、あなたは別に何をする必要も、何かが出来る必要もないんですよと。最低限、愛情が伝わる言葉を添えてくれればいいだけでね。これって言い繕えば繕うほど胡散臭くなるからシンプルでいいんだけどね。

勿論、長年に渡って情報供給その他ファンとして大きく貢献してくれている方々には最大限の感謝と尊敬を捧げる。それはそうとして、そんなことしてなくても出来てなくても同じような仲間意識というか同志意識というか友達感覚というか、そういうのを持って接するということは覚えていて欲しい。貢献なんてしなくていいのよ。したいという感情があるだけで既に尊いしね。なので、そういうアウトプットがないことなんて気にしないでいいんだからね~。