恐らく、ヒカルのコメントでシミュレーション仮説だ古代の宗教だ哲学だ量子力学だといった難しそうなワードが踊っているのを耳にした多くの人たちは「そんなのわからん」と白旗を上げているかもしれない。それはそう。わからん。だけどヒカルは、自身がそういった話題に触れた時に自分が感じた感覚について歌っているのよ。それらのよくわからない定義や詳細な含意について論じたりするつもりはないのです。
例えば初めてシミュレーション仮説を聞いた時の、自分の足場が空虚になったかのように感じられたその感覚や、量子力学の観測問題に触れた時の、観測者としての自分の存在とそこに宇宙があるのだという素朴な確信が両方いっぺんに揺らがされた時の心の動揺。そういった感覚、フィーリングに基づいて作詞作曲が為されていて、その成果が今回の新曲『何色でもない花』なのだと言える。
なので、我々はリスナーとして、この歌を聴いた時に何らかの感覚や感情が生まれたのだと知覚できさえすれば、ヒカルがそれらの難しい本やらポッドキャストやらを読んで聴いて生まれた感覚を、ある程度何割かは追体験できていると言っていいはずで、また、そういった内的感覚の共有が出来、それについての幾許かの対話が出来る事が音楽家宇多田ヒカルの目指す所ではあるのだし、我々の方も、あわよくばヒカルと楽しく会話のやり取りが出来たらなぁと祈り願うのであれば、別段シミュレーション仮説や量子力学の詳説を理解して話す必要はなく、歌を聴いて感じた事を素直な言葉で伝える事でヒカルとの対話は成立していくのだから、結局はそういった小難しいワードの数々に怯んだり慄いたりする必要はまるで全然ないのだった。寧ろ、中途半端に理解していると思い込んでる方が、対話の成立を阻害するかもしれないよ。何しろ、ヒカルパイセンは大変な読書家で、その読解能力の高さは個別に実感できなくとも大いに推察される所ではあるので、付け焼き刃で立ち向かってはつまらない奴と断じられるかもしれないのですよ。テレビでChatGPTの作詞に対して「浅いですねぇ」と切り捨てた時みたいにね。
まぁだから、何が言いたいかというと、ヒカルさんは結局科学者や漫画家には(今のところは)ならず、歌を作る事で他者に対してアプローチをとる方法を選んでいるのだから、こちらは歌を聴いて感じた事をどう返すかについて集中すればいいってことなのでした。
シンプルなことでいいんだよね。具体的な、文学的な、評論的な表現方法でなくていい。歌を聴く前と聴いた後で変化した事をそのまま伝えればいい。「歌を聴いたらなんだか部屋の掃除がしたくなったのでしました」とか「無性にヨーグルトが食べたくなりました」とか「実家の両親に電話したくなったのでしました」とか、自分の内面を言葉で伝えるのみならず実際に起きた出来事を伝えると、それで案外作詞者作曲者というのは感じるものがあったりするので、そういうのがいいと思います。もちろん、「歌を聴いた友達と“聴いた?”“聴いたよ〜!”とやりとりしました」みたいなのでもいい。というかこういうのは相当嬉しい。ヒカルパイセンはTwitterをエゴサしてるっぽいので、直接返信しなくても読んでくれてる可能性はあるですよ。ま、そういうのも好き好きで。自分が感じた感覚を、まずは自分自身が信じてあげて、それに基づいた言動を繰り広げるのが、やっぱり大事なんですよ。歌に歌われてる通りにね。だから、繰り返しになるけれど、ヒカルパイセンが小難しいことを言い出したとしても気後れしたりする必要は、まるでないのでした。まる。