無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

だから掬える

東京事変が東京公演を催行して二週間。どうやらクラスタ形成には関与していないらしく。参加者から感染者が出ていないという意味で。

これは別に誇らしいことではない。勿論、感染者が出たからといって叩かれる謂れもない。公衆衛生とはそういう語り方をする為の言葉ではないのだ。あクマで社会全体での最適化であって、局所でどうなろうが大した意味は無い。統計的に有意であるかどうかが総てだ。

ここらへん、音楽に携わる人間には葛藤の原因だろう。作品と向かい合い自己を知るような作業と、一個人をエージェント(構成要素)として見る統計の世界は相容れないにも程がある。そこからこぼれ落ちている(といってもそれは世界のほぼ総てなんだが)感情を掬いとる方が仕事だ。

震災の時に、庵野秀明だったか、「表現者として今回のこと(震災)に感化されないのは有り得ない」と言う人が居たが、今回の全世界的パンデミック表現者を感化するレベルに達している。しかし、そこで語られる使われる言葉は必ずしも公衆衛生にそぐうものではないだろう。9年前に原発問題に対してエモーショナルな反応をし、そこまではいいのだが、なぜかそこから社会的なムーブメントにしようとした表現者たちがいた。領域が違う所まで行ってしまうと軋轢は避けられない。表現者は表現の場を守らねば。攻め入ると攻め返されるよ?

ヒカルもまた今回のパンデミックでエモーショナルな刺激を受けるかもしれない。それに関する歌も作るかわからない。それは当然のように公衆衛生の言葉からは遠いものとなるだろう。しかし、歌っている分には何の問題もない。そして、それが救いになる人も居る。人はパンだけでは生きていけない。それは弱さではなく、ただ心がそこにあるからだ。忘れてはいけないよ。