結論から言うと、『One Last Kiss』という楽曲の持ってる方向性というのは「大人になるって案外楽しい」ということではなかったかなと。
エヴァンゲリオンという作品は雑に言えば「14歳の葛藤」のお話だ。父親と息子の関係に始まって、同性の同級生や異性の身近な人、先輩や上司、遠くの母親など、こどもから大人になる過程での苦悩と葛藤を、庵野監督が好きなロボット(わざとこう言ってみる)が活躍する形式で表現したアニメだ。それの完結に至るまで四半世紀が掛かったというのは、14歳が大人になることの大変さを示すとともに…ってその間に庵野秀明は還暦を迎えてるわけですけども。
旧劇版ではアニメ映画を鑑賞してる観客に向けて実写を織り込んで批判するなど、そもそもアニメーションからの脱却まで視野に入れてあれやこれやと懊悩した庵野さん、エヴァQではその逡巡の数々が新劇版でも現在進行形であることを示していたが、兎にも角にも新劇版4作目のシンエヴァにて漸くそこから“卒業”することが出来た。『One Last Kiss』はその瞬間をこの上なく彩った、“思春期最後のサウンドトラック”だったとも言える。
『First Love』の『最後のキス』や『大空で抱きしめて』の『最後と言わずにキスをして』などからもわかる通り、宇多田ヒカルの歌詞に於いて“Kiss”は「最後の挨拶」という意味合いを多分に持つ。それに更に“last"がつくんだもの、これ以上ない区切りだったろう。
そして、あの幻想的ともいえるイントロから『止められない喪失の予感』に導かれて何が生まれてくるって、躍動感と生命力なのよね。そこから生きていく力。『もう』と『more』を連発していくことで生まれる生への積極性。音楽的にいうとそれってグルーヴなのよね。喪失や別離も生の位置側面として肯定していく中で自然と湧き上がってくる「それでももっとここに居たい」と思わせる力それって「楽しい」ってことだから。
日本が特にそうなのかは知らないけれど、「大人になること」や「年齢を重ねること」が色々と諦めることだったりする文化がどうにも強い。プロ野球の地上波放送はめっきり減ったのに高校野球は全試合生中継とかそんなわかりやすい説明やら、女性と年齢に対する扱いやら、硬軟様々な見方が出来るけれど、元々はヒカルって人はそういった文化から距離をとって、大人になることを待ち望む人だったのよね。早い段階から“運命と和解”して自分の立ち位置を築いてきてはいたけれど、それでも大人になるには足りないと人間活動を敢えて設けて妊娠出産もして母との別離まであっての今。3年前にエヴァの“14歳からの卒業”にあたって、そこから先の躍動感をも描いたのが『One Last Kiss』だったのかなと。
そこが大きな節目となってアルバム『BADモード』の方向性を決定づけ、その延長線上に生まれたのが『SCIENCE FICTION』プロジェクトだったのなら、あのライブでの躍動感の理由も見えてくる…
…ってちょっと今回色々と詰め込み過ぎたかな? まぁいっか。それがあの「楽しさ」の一因だったかなとそう振り返るのでありましたとさ。