無意識日記々

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少女少年、生き方の流儀。

さっきまで庵野秀明をフィーチャーした「プロフェッショナル仕事の流儀」を観ていた。隙間時間を繋ぎ合わせた感じなので全編観れた訳ではないのだけれど、少なくとも自分の観た範囲では宇多田ヒカルの宇の字も出てこなかった。残念。せめて続けて「不滅のあなたへ」のPVでも流してくれたらよかったのにな。でもこの番組きっかり75分=4500秒なのね。そんな隙すら無かったぜ。とほほのほ。

庵野秀明という人の特異な所は、本質的には小説家的なパーソナリティを持っているのにアニメーターとして絵を描き監督の座に就いた事だ。彼の言動は至って当たり前というか普通というか、自然なものだった──もし彼が小説家とか漫画家とか作曲家とか、ひとりでモノを作る人であったならば、ね。

「頭の中にあるものはつまらない。外にあるものを見つけないと。」というのは、そういった“ひとりで書く人”であれば日常的に呟く事であって、彼ならではという程のことではない。だが、映画監督という多くの人を使役する立場の人間なのにこれを言ってしまえるというのが彼のぶっ飛んだところなのよね。普通ならひとりで味わう制作のライブ感覚を何十人何百人という人々を巻き込みながら体感していく。しまいに前世紀のテレビシリーズは視聴者にまでそのライブ感を伝えてしまった。漫画家が原稿を落としそうになって線画や文字解説で凌ぐような事を(萩原一至冨樫義博みたいなヤツな)アニメーションでやってしまった。

新世紀エヴァンゲリオン」は、昔からしばしば純文学、私小説になぞらえられてきた。そりゃそうだ、庵野秀明という人の本質は私小説家なのだから。ただ、字を書く代わりに絵を描きそれを動かし周りの人まで動かし始めたからそこが世紀末的に、21世紀的に新しかった。アニメ視聴者に私小説の魅力を教えた人なのだ。

今日彼の立ち姿をテレビで観ていて、「嗚呼、彼の世界の見え方ってエヴァンゲリオンそのものなのか」という気がしてきた。彼はアニメでファンタジーを描いているというよりは、自分自身の持っている現実の世界に対する見え方捉え方をそのまま絵を動かして表現しているのだなと。彼にはこういう風に世界が見えている、という表現が「新世紀エヴァンゲリオン」なのだなと。

そんな作品だからこそ宇多田ヒカルに響いたということだ。ヒカルが小説を沢山読む文学少女なのは周知の通りだが、ヒカルはエヴァ私小説的な核をすぐさま読み取り自身の歌に反映させた。故に脚本をまともに読まなかった『桜流し』も映画の完成を待たずに書き始めた(ような気がしてきました私が勝手に)『One Last Kiss』も、しっかりと物語の枠組を捉えていた。それはヒカルに文学的素養と経験が備わってた事と、それに加えて、その、私小説的な核の部分を文字による小説ではない手法によって表現する手法を元々携えていたからだ。そこに庵野秀明の特異性が絡み合って『Beautiful World』と『桜流し』と『One Last Kiss』が生まれた。要は、もともと庵野秀明宇多田ヒカルって似たもの同士なのよね。アニメ監督とシンガーソングライタープロデューサーという手法と立場の違いはあれど。

となると、だ。ヒカルがシンガーソングライタープロデューサーであるのならば、「ライブ感覚」の最大級に直接的な表現方法である「ライブ・コンサート」でエヴァ関連の楽曲を披露する時に、どれだけ「絵コンテなし」(番組では「画コンテ」って字幕出てたな?)なスピリットで挑めるかというのも、ひとつ今後の注目点になるかもしれない。まぁ、気が早いな。次のライブが観れるのなんていつになるやらだから。それまではこの、宇多田ヒカル庵野秀明という似たもの同士によるタッグが生んだ人類史上最高傑作映像たる『One Last Kiss』MVでも観て過ごしておくと致しましょうかね。いやほんと、番組で言われていた通り、少女みたいな少年みたいな還暦ですな総監督は。