無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

エヴァではないいつかどこかで

話は飛ぶが、ふと『Beautiful World』や『One Last Kiss』の歌詞が碇ゲンドウの視点によるものではという説が出ていた事を思い出してね。

インスタライブでもヒカルは自身を結局ゲンドウだと言っていた。座談会にそんな話題出てたかどうかまだチェックしていないんだけど、ヒカル本人は昔自身にいちばん近いのはアスカだと言っていたし紀里谷さん(とヒカルは呼んでたねぇ)はレイだというし、要するに結局誰に似ているかって、庵野監督なのだろう。

そういえば、シンエヴァを映画館で観ていた時に自分は「誰の言うこともわかるなぁ」と悩んでいたな。それぞれの立場でどう感じどう考えどう行動するか。その点でどの一人々々も自然な言動で、いやはや庵野総監督は相当ひとりひとりの心情を煮詰めきったのだろうなぁと感心していた。

と同時に、一抹の寂しさも覚えていた。登場人物の誰にも肩入れできず、他方「あいつ何考えてるかわからない」と言いたくなる人も出てこないということは、この作品てもう私には必要ないんじゃないかとな。何の葛藤もなく納得だらけということは、こちらに伝わるべきことはもう総て伝わって受け取っているのではないか、と。ホント、これで終劇でよかったわ。

思えば、「新世紀エヴァンゲリオン」のテレビシリーズの何が魅力で不気味だったって、誰も何を考えているかわからない事だった。そもそも「使徒」という存在自体目的も由来も不明だったし、碇司令も全く腹の底が見えない。観れば観るほど翻弄されていくのが旧劇だった。だから、嗚呼、終劇にはもう知っている事しか出てこないのかと。

勿論、物語の着地点なんかはわからなかったし、そう感じた後も感慨深く映画は楽しませて貰ったのだが、それで痛感したのは、上記の通り登場人物の誰もが庵野秀明の写し身(現身?)であるから、故にその誰にも共感できるとは、庵野秀明に全面的に共感する事だったのだ、と。

きっとヒカルも、そういうことなんだと思う。作劇で登場人物より作者の方に感情移入するというのも同じ事だ。

それらを振り返ると、『Beautiful World』や『桜流し』や『One Last Kiss』が誰の視点にいちばん近かったといえば、庵野秀明だったのだろう。ヒカルは、歌を通じて彼から見えている世界を描いたのだ。だからそれは彼の写し身である碇シンジの視点にもなるし碇ゲンドウの視点にもなるしアスカやレイやユイの目線にもなり得た。

そして驚異的なのは、恐らく、『Beautiful World』の時点で、ヒカルは庵野秀明がどういう人間であるのかを、当時の庵野秀明本人よりも深く見抜いていたという点だ。2021年に至るまでの間に庵野総監督はゲンドウの視点にいちばん近くなり、結果碇シンジの心情がわからなくなって緒方恵美に見解を乞う迄に到った訳だが、今振り返って『Beautiful World』が碇ゲンドウの視点から描かれていると感じられるのは、ヒカルが、シンエヴァにて庵野秀明碇ゲンドウに最もシンクロするであろうことをあの時点で本能的に見抜いていたからではないだろうか。

そんな音楽の書いた歌詞だからこそ、例えば『桜流し』の世界観はシンエヴァの第三村に繋がっていったのであろうし、『One Last Kiss』はシンエヴァ自体のまるごとの表現として機能した。予言より遠く深く、ヒカルはこの作品の核を逸早く貫いていたのだ。オマージュも何もかも、それに基づいての安心感と信頼感の基に構築されている。ヒカルが居たから、どうなっても大丈夫だったのだ。

そしてヒカル自身も、アスカやレイからゲンドウに近くなっていったというのは、もう素直に今や人の親になったからだろう。それを考えたらどう足掻いても碇ユイがいちばん近い気がするが、自分にはああいったドジで楽天的で聡明で爛漫な所はないとでも思ってるんじゃないか。いや、あんたはそれそのものですわ。しかも、その上真希波マリにもよく似ている。一時はヒカルがモデルじゃないかと言われた位に。要は、ヒカルって庵野秀明からみたら架空の理想でもあり且つ現実の魅力でもあるような存在なんじゃないの。なおマリのモデルは彼の奥さんの安野モヨコ氏だというのが最も有力な説だ。

あー。だから、『One Last Kiss』のミュージック・ビデオがあそこまでヒカルの魅力に溢れてたのか。彼の目には、宇多田ヒカルはああみえていたのだから。それは、我々のいちばんよく知るヒカルの姿と魅力だった。きっとまたこの二人はどこかでコラボレートすることだろう。エヴァではないいつかどこかで、ね。