無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

あの日の思い出を解凍するか否か、真面目に語った。


さて、個人的な話にはなるが、自分が観たのが8月31日の横浜Kアリーナ公演で、明後日から配信されるのが9月1日の横浜Kアリーナ公演なので、まぁ記憶は混ざっちゃうよね。これについては私、諦めます。混ざります。しゃーなし。


コンサートの思い出を真空パックしたい人は、リリースされるライブビデオを観ないとか、或いは文章に起こしてしまうとどうにも印象が陳腐化してしまうからと何も書かなかったりとか、自分なりに防衛策をとる。こればっかりはその人なりの対処対応があって一概に言える事は何もない。


なので、「無意識日記のi_さんの場合は」という特殊な但し書きを置いた上で敢えて言わせて貰えれば、ライブの記録は文字で書いておいた方がいいのよね。今のご時世なら自分が語る動画や音声を録っておいてもいいのかな。


『ヒカルの5』なんか、もう20年前になるんだけど、“実際のライブの様子は思い出せないけどその時に自分で書いたライブレポの文字面は思い出せる”というケースが結構あるのだ。「あの時のこと、もうあんまり思い出せないけどこう書いてあるのだから私はきっとそう感じたんだろうな。」と後から認識出来る。文面を記憶の中だけでなく実際の記録でも参照出来るなら尚更だ。


生々しい、言語化の難しい体験ほど、思い出す度に変質しやすい。生々しく、自分自身に大きな影響を及ぼすからだ。それをいつも感動と呼ぶのだけれど、それらは思い出して反芻する度に、それらは変質し、実際にその日その場所で感じた“ありのままの姿”からは少しずつズレていく。なので実は、強烈な体験ほど思い出す機会は少なくした方がいい──もし未来永劫コンサートの思い出を真空パック、或いは冷凍保存しておきたいのなら、ね。


ここはもう価値観の世界だ。私は、毎回(でもないけど)こうやってコンサートの感想などを文字として記録してあるから、それで一旦ある程度その日の感動を、真空パックや冷凍保存ほどではないけれど、まぁ干物や缶詰くらいにはその日のことが思い出せるようには保存しておいているつもり。そうしておいて、日々の日記を書いていく中で何度もコンサートの時の感動を想起し、それを解体解釈することで宇多田ヒカルとその音楽に対する理解を深め、その深まりをあーだこーだと味わい楽しみ、その度に記憶を変質させている。「あの時ヒカルがこんな風に歌っていたのは、もしかしたらこんな理由だったのかもしれない」と新たな気づきに出会う度に、2024年8月31日の記憶はもう昨日と同じでは居られない。ちょっと切ない。私はそうやって、思い出す度に忘れていくのだから。当時の生々しい感動のありのままの姿を。


しかし、それによって確実に、“コンサートの体験が自分の身になっていく”事を私は経験的に知っている。2004年2月10日に初めて生で観たヒカルの記憶はもう随分とセピア色…どころかモノトーンですらあるのだけれど、その時受けた影響が無ければ今ここでこんなことは書いていない。あの日の2時間ちょっとは、それくらいには私の人生を変えて、豊かに彩ってくれた。コンサートの体験を、忘れる事で今に活かしている。そう狙ったわけではなく、結果的にではあったけれど。


こう私が語る事で、「そういう人も居るのだ」というのが参考になればいいのだけど。



なので、「あの日の思い出が混乱するからライブビデオ(配信)は観たくない」という気持ちはよくわかる。そして、その懸念は本当に正しいのだ。貴方が守りたいものを守るためにその方法は正しい。ただ、それを守り切れなくても次に得られるものがまた別にあるかもしれない可能性については、どこか心の端っこにでも留め置いておいてくれたら、私が嬉しいし、きっとヒカルも嬉しい。変質しようがしまいが、一度のコンサートで得られるパワーとエネルギーは、確固として存在し続ける。変わる事を恐れるのもよし、恐れなくてもそれはそれで。ただ、“何もなくなってしまう”ことだけはないのだ。コンサートの思い出は死なない。“ライブ”と言われるだけのことはあるのよ。少なくとも宇多田ヒカルのコンサートはどの一回もそれくらいに凄い。百億年に一人の天才が全身全霊打ち込んでるだけのことはあるのよさ。