無意識日記々

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日本が棄てられる日

ヒカルが日本語で歌ってくれているのは間違い無く幸福で、且つ幸運で。これは当たり前ではない。現に今居住は日本にはない訳で、勿論昔から東京とニューヨークを行き来する生活だから別に今に始まった事ではないのだけれど、離婚もして婚家に気を遣わなくてよくなった今でも子育ての為に日本を選ばなかったのだ。まだ人と言葉は選ばれているけれども、いつ愛想を尽かされてもおかしくないのよこの国は。

ヒカルの性格からして、一度こうやって深く関わった土地や人や言語を早々見棄てるような事はしない。しかし、この国には歌手に見棄てられるに相応しい"前科"がしっかり歴史に残っている事を忘れてはいけない。第二次世界大戦中に敵国の言語だとして英語が迫害されたのだ。野球用語が総て日本語に書き換えられていた事は有名だろう。まぁそんな状態になったら、ヒカルが出て行く前に我々が「早くこんな国は見棄てて他の国で活動してくれ」と嘆願するだろうけれど。

日本語が母語である国は日本しか無い。この国が変になったら日本語の歌は行き場を喪うだろう。特にヒカルの歌詞は日本語と英語の混ざったものだからそうなったら生きづらい。最初から日本にしか行き場がない歌手なら工夫して対応するかもしれないが、海外にも拠点のある人間がここを選ぶ理由は無いのだ。

今の国際情勢なら絵空事、だろう。インターネットを棄てる国が今後出てくるとも思えない。が、未だにインターネットをまともに使えない国も在る訳で、そちらに寄ってしまえばどうなるかわからない。歌を楽しむのに国際情勢を知る必要なんてほぼ無いし、気にすればするほど無駄な杞憂が増えるだけで何が出来る訳でも無いのに精神衛生だけが蝕まれていく。いいことはない。ヒカルはまだ36歳。そのキャリアが翻弄されない為には国際情勢の安定は欠かせない。日々気にする必要は全く無いが、そうである事だけは心に留め置いておいて貰いたい。

Don't sigh twice

つくづくオリジナリティの育たない土壌だなぁこの国は、と溜息を吐く。オリジナルな人間が居ないのでは無く、居てもその価値を認めない、どころかそれを潰しに掛かる文化的土壌が出来てしまっている。小学校にあたる時代をニューヨークで過ごし日本でもインターナショナルルスクールを経験し、何より両親がその才能を認めてくれたヒカルはうまくそこをすり抜けられたんだなと。

昔からヒカルはやや日本の田舎、農村地帯の閉塞性を侮ってるところがあって。他人を蹴落とす為なら自分に不利益を被るのも辞さない精神性など想像もつかなかったのだろう。そういった側面も今は学んで、見越した上で子育ての地として日本を選ばなかったのは正解だ。生活資金と言語で困らないのなら日本以外に住みたいと思うのは、特にオリジナリティを重視するクリエイターにとっては自然な事だ。

そんな中でしっかりと今でも日本語の歌を唄ってくれているのは心強いというか有難いというか。日本が嫌いな訳ではなく、日本にベストな地が見つからなかっただけだわな。本当の事情はもっと込み入っていて他の理由の方が大きいかもしれないが、ひとまずはいい選択をしてくれているなとホッと安堵の溜息を吐くのだった。

復活!『 #ヒカルパイセンに聞け2 』

やれやれ、先月もまわりくどく直球に(?)「ヒカルパイセンQ&A復活してくんねぇかな」とか書いてたその願望が早くも叶った。皆も待望だったんだな、半日でなんちゅう数の質問が集まっていることか。こんなん読むだけでも大変やがな。

こちらはこちらで昨夜「最近はどちらかというと宇多田ヒカルパイセンに抱かれたい欲の方が」とか寝ぼけた事を言っていてまぁ勿論それもQ&Aがアタマにあった訳でもし復活したら「抱かれたいです」って質問(??)しなきゃいけないのかなとかアタマを過っていたのでこれは渡りに船なのか何なのか。即大破沈没案件だと思うのですけど如何でしょうか…。

自分も質問箱をやってて「人に訊かれて答えていく中で生まれてくる面白さ」みたいなものを楽しんでいて、これって「ラジオのディスクジョッキーが、元々そもそも自分がかけたいと思っていた曲なんだけどリスナーからその曲にリクエストが来ていた時のウキウキワクワク感」とちょっと似ている気がしていて。ほら、インタビューイが「今のはいい質問だ」って時々言うでしょ。「待ってました今俺そういう話がしたかったんだ」っていうやつ。でそれにプラスして「そんなことは考えてもみなかった。ちょっと待って考えてから答えるよ。そうだな…」っていう展開が来たら儲けもの。ディスクジョッキーからしたらリスナーに未知の名曲を教えられるのにあたるかな? そりゃ『あげたい 君の知らないCD一枚』って歌いたくもなるのよさ。でもこの歌詞もそのうち十数年経ったれば「…CDって、何?」とかって新しいファンから言われてるんだぜ。おーこわ。

…話が逸れた。最近ヒカルも雑誌のインタビューを受ける機会が少なくなっているが、このパイセンに聞けコーナーが生きていればそれが無くともなかなかに興味深い問答を楽しむ事が出来る。なので音楽雑誌媒体の皆々様方におかれましては、どうせならインタビューという形式ではなく、音楽的見識を誇れるような御仁─それはミュージシャンでも音楽ライターでも誰でもいいのだが─との"対談形式”を重視して記事を構成してくれるようになると棲み分けが出来て面白い気がする。今やインタビューアーも名前で売る時代だろうに。…んーそうでもないかな。そうなったら嬉しいなという私の願望かな。

いずれにせよ皆さんチャンスなんですよ。ヒカルに返事が貰える、会話が成立する絶好の機会。別に質問でなくてもよいのよ。ヒカルからすれば言葉のやりとりの中から何か面白い事が生まれればそれでいいんだから。訊きたい事が思い浮かばないんだったら兎に角伝えたい事を書いて伝えてみようぜ。話はそれからでも全然遅くないのよさ。

今日から梅雨入り見込みなのね。雨、か。

真夏の通り雨』を聴きながら「やっぱこいつ歌クソうめーな」と悦に入っていてはたと自分がこの歌を純粋にただ娯楽として消費している事に突然気がついた。

悪気も気後れもない。ただ、これが時間かと。聴いた当初はヒカルの母への想いが重過ぎて強過ぎてそれなりに正座して耳を傾けないとという感じだったのだが、今はこうやって片手間に片耳で聞き流しながら歌うめーなとか言って、それこそレモンだってと呟きながらスパークリングをグッと一飲みする手軽さでこの歌に接している。

薄情といえば薄情だ。ヒカルからしたら母を喪った痛手は癒える癒えない以前に既に生身の精神に刻まれた消えない痕・証でしかなく時間と共に風化するようなものではない。依然悲しいし依然虚ろだろう。こちらは、そうではない。思いを馳せる事と実際の感情は別物だ。

楽家は因果な商売だな、と言うこともまたできる。が、極端に言えば感情を笑い飛ばせるようになることもまた救いに成り得る。バッハのフーガだってベートーベンの交響曲だって作った時点では命懸けのシリアスな作品だった筈だが20世紀や21世紀の人間にとってこれらの曲は多くがギャグパートを引き立てる為の道化に過ぎなくなっている。スタンダードになりすぎたから。そうやって感情は音楽になり音楽は日常になり日常は笑顔を生んでいく。

真夏の通り雨』はまだそこまでには行っていない。だがそのうちバッハやベートーベンの作品のように何百年も経ってスタンダードになったりしていたら、その時はギャグとして笑い飛ばされているかもしれない。今自分がこの歌をただの娯楽として消費するようになったと気づいたのはその嚆矢だ。今を生きている特に若いファンは反感を持つかもしれないが、表現活動とはそうやって不完全ながらも物事を前に押し進めていく。ヒカル自身ですらいつかこの歌を笑顔と共に歌うようになるかも、しれないよ。

いやまぁホンマどうしてこうなった

先月出たスティングのセルフカバーアルバムよいなぁ。まだちらっとしか聴いてないけど、自分のような彼に対して熱心でない人間に親切なアレンジの数々。彼の誇る数々のクラシックスを聴き慣れた人たちには物足りないかもわからないが自分のような俄な人間にはちょうどいいよこういうの。

スティングといえばその昔ヒカルの「抱かれたい男No.2」の地位に君臨し普段大人しい男性ファンの羨望を一身に集め私などは生まれ変わったらスティングの顔に生まれ変わりたいなどと…って、あれ? あ、そうか、普通は『Never Let Go』でギターラインが引用されている『Shape Of My Heart』の作者って事に触れるのが先なのかな。うっかりしていた。そうだよね。

しかしこの「抱かれたい男No.2」の方が聞いた際のインパクトが大きかったのだ。ヒカルを誘えば抱ける男がこの世に存在している…! いやそりゃ「彼氏を途切れさせた事が無い」と豪語する肉食系のヒカルさん(多分今でもだよね)だからヒカルを抱いた男は今までに何人も何人も居るんだろうけれど、ヒカルが名指しでこの男に抱かれたいと宣言した時の生々しさたるや…筆舌に尽くしがたかったぜよ。スティング御存命どころか現役バリバリだしね。

今や身体を鍛え上げてステージ上でフキコさんと絡み踊る姿に嫉妬と羨望を向ける女子たちからの黄色い嬌声を一身に受けるヒカルさんなんだが、昔はもうちょっと男性ファンもアイドル的目線で見ていなくもなかった気がする。まぁそれらを一掃したのが1回目の結婚だった訳だが、そんなこんなでヒカルさんの性的なシンボラィゼーションは時代の変化と共に僅かずつ変化を遂げており…ってあれ、これ何の話してるんだ?(─我に返ったw)

…本来なら確かスティングのセルフカバーアルバムの手法を叩き台にして『Laughter in the Dark Tour 2018』に於ける旧曲のアレンジと歌い方のアプローチを振り返って映像商品の発売に備えよう、みたいな話をするつもりだったのにどうしてこうなった…やっぱり私は宇多田ヒカルを抱きたいのだろうか…いや最近はどちらかというと宇多田ヒカルパイセンに抱かれたい欲の方が…って、あぁ、まじで誰も聞いてないですねすみません。というわけで後日また仕切り直してその「ライブでの"セルフカバー"アプローチ」について言及したいと思います。いやまぁホンマどうしてこうなった…。