無意識日記々

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悲観論

前も少し似たような事を書いた気がするが、人間活動を通して成長した光が戻ってくる事に関して心配や不安は殆どない。寧ろ不安なのは、我々の方がしっかり出迎えれる態勢をきっちり整えられているかどうかだ。

まず、レコード会社はどうなっているのだろう。幾ら契約が残っている、続いているとはいえ経営陣が刷新されてしまったら、と思うと気が気でない。これも前に書いた気がするが、EMIの身売り先がUniversalだったら光はどうするんだろう。まぁ移籍するったって引く手数多だろうが。

いや、それすらも怪しいかもしれない。インターネットが普及した時、CDのようなフィジカルが売れなくなるのは予想されたが、ダウンロード販売はその減少分をまるで補っていない。寧ろ、ここ日本では新曲を買って聴くというライフスタイルが減っている感じすらする。

思うに、昔流行歌は庶民のコミュニケーションツールだった。何らかのメッセージを歌に載せメディアを通じて日本中に広める。そのメッセージに共感した者同士が共感を深める。その橋渡し役だった。

今は、何か思うことがあればメールを送ればよい、ブログを書けばよい、ツイッターで呟けばよい。直接相手と、或いは不特定多数少数の民衆とコミュニケーションをとる手段ができた。そこで話題にする為にまだまだ音楽は有用だが、他にゲームがある、ニュースがある、占いがある、通販がある、となってくるとOne of themどころの話ではない。特にこの業界は著作権固執しすぎCCCDなどで失敗を繰り返した。話題になる為の敷居を自ら高くし、音楽に触れ合う機会と習慣を次々と奪っていったのである。

このままいけば衰退は加速する。地上波テレビで音楽、歌を流す番組がどれだけあって、それらはドラマやバラエティーやアニメやスポーツと比べて存在感はあるだろうか。ない。音楽の需要自体はなくならないが、新しいものへの希求は薄れていくだろう。

音楽を聴く習慣の衰退は、憂うべきだ。音楽は勝ち負けではなく趣味嗜好であり、自分が価値があると思うもの、自分が美しいと思うものを追求する行為だ。元々日本人は苦手な分野なのである。場の空気を読み、周囲の動向を気にして同調してゆく生活には音楽は価値がない。何を好きかでアイデンティティと社会的地位を築き上げるのではなく、地位が用意されていてそれにアジャストしてゆく。勝ち馬に乗る癖ばかりがついていく。それは別に生き方として間違ってはないけれど、音楽にはつらい。テレビのニュースでスポーツの明日の試合予定や結果を報告することはあっても、次の日の演奏会の日程や前の日のライブの様子を伝える機会は極めて少ない。外タレ公演は話題になるが、外国人が来たから色めき立つというだけである。

インターネットは、そういう日本人の特色を見事に抽出してしまった。こんな傾向が更に何年も深まっていったとしたら、果たしてこんな国の為に日本語で歌う意義なんてあるのだろうか。全身全霊をかけるからこそ、相手を、受け手を選んだっていいと思うのだ。

まぁそもそも、行政体としてのこの国がそのうち瓦解するんではという不安が、今回の震災を機に更に高まっている気がする。行政が崩れ、経済が崩れ、市場が崩れれば音楽を売るだなんて話ではなくなる。レコード会社は消えてなくなり、日本人から流行歌の習慣は消えていくかもしれない。

そうならないようにする為には…そうだな、せいぜい祈るくらいのことしか出来ないな。でもその祈りの力こそ歌の力だ。祈ることを忘れなければ、光はまた僕らに向かって歌いに来てくれる、と何となく信じておくことにしようか。